紀州藩
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きしゅうはん
紀州藩とは和歌山城を藩庁とし、紀伊国の多くと伊勢国の南部を領していた藩である。
和歌山城はもともと、1585(天正13)年の紀州征伐で功績を上げた豊臣秀長が自らの居城として築城したものであった。その後秀長が大和郡山城へ移った後は、家臣の桑山重晴が城主となったが、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで東軍についた孫の一晴は大和新庄藩へと移封となった。
代わって浅野幸長が紀伊1国37万石を与えられて和歌山城に入り紀州藩が成立した。その弟長晟の時に安芸広島へ加増移封され、その後に徳川家康の十男・頼宣が伊勢の一部などを合わせて55万石で入り、御三家の一つ紀州徳川家が成立した。
支藩として伊予の西条藩がある。後述の将軍就任の際に西条藩から新しい藩主を迎え入れている。明治には新宮藩と紀伊田辺藩が独立した。
紀州徳川家の特徴は、将軍を2度も輩出していることである。
頼宣の孫であり5代藩主の吉宗と、吉宗の来孫で13代藩主の慶福改め家茂である。ただ吉宗以降は14代将軍の家茂に至るまで吉宗の子孫が将軍職を継いでおり、15代将軍の慶喜にしても水戸徳川家から一橋家に養子入りしてから将軍となっているため、厳密には宗家以外で将軍を輩出したのは紀州家のみと言える
備長炭やみかんは江戸時代から特産品として知られている。また、松阪の伊勢商人も有名だった。伊勢商人の三井高利が作った越後屋は三越のルーツとなっている。
1867には大洲藩が所有し海援隊が借りていたいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突し、いろは丸が沈没する事故が起きた。賠償交渉は坂本龍馬がやり手だったため紀州藩は優位に立てず、紀州藩は多額の賠償金を支払わされることとなった。
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