概要
10世紀後半ごろ、地元の豪族郡山衆が城を築いたとされており、これが郡山城の原型となった。
戦国時代には郡山衆は筒井氏に仕え、1579年に織田信長の命を受けた筒井順慶が郡山城の拡張改修を開始する。工事には明智光秀率いる奈良の大工衆が集められ、1583年には天守を備えた「郡山城」が完成した。
1585年、豊臣秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三カ国の拠点として郡山城に移った。秀長に相応しい城として大改修が行われた。大規模な城となったのは大坂城の防衛も兼ねていたためとされる。
秀長とその跡を継いだ秀保の死後は、五奉行の一人増田長盛が、関ヶ原の戦いの後は廃城処分となり、建物は伏見城や二条城に移築され、城地は奈良奉行所の管理下に置かれた。
郡山城の戦い
1615年郡山城主に筒井定慶が任じられた。その元に豊臣軍からの使者がやってきて豊臣軍に勧誘するも定慶はこれを断った。
「戦になる」と感じた定慶は侍、農民、町人問わずおよそ1000人を集め郡山城に籠もった。
しかしなかなか敵軍は来ず、気が緩み始めた矢先豊臣軍がおよそ2000の兵を率いて夜間行軍してきたのである。
ところがこれを「3万の兵」と勘違いし、「戦っても無駄」と考え定慶は城を脱出。兵たちも城を捨てて逃げ出すのであった。豊臣軍の攻撃で郡山城下は炎に包まれた。
大坂夏の陣の後、筒井定慶は郡山城を捨てたことを後悔し自害したという
その後
戦後、水野勝成が6万石で入部して復興を始めたが、半ばで備後福山へ移封となり、復興終了は次の藩主である松平忠明(12万石)、本多政勝(15万石)の代で完成を見ることになる。
その後は藤井松平家(8万石)、本多家(12万石→5万石→改易)、柳沢家(15万石)と続き、明治維新後に廃城となった。
続日本100名城、日本さくら名所100選に選出されている