プロフィール
父:水野忠重
幼名:国松
通称:藤十郎、六左衛門
号:一分斎
官途名:日向守
渾名:鬼日向
徳川家康の母方の従兄弟かつ領主の嫡男。
しかしながら、前半生は槍働きを売りとした渡り浪人として戦場を駆け抜け、後半生は名君として現在の福山市の基盤を作り上げ、そして生涯にわたって名誉や恩賞よりも戦場に立つことを望んだ生粋の戦狂いである。
まず間違いなく戦国最強クラスの武将の一人だが、知名度が低い。
生涯(※史実です)
初陣から怒涛の若年時代
水野忠重の嫡男として生まれた勝成は天正7年(1579年)の高天神城の戦いで初陣し、16の初陣にして15の首級をあげる。当時主君だった織田信長もこれには驚き、戦巧者として感状と永楽銭の旗印、左文字の刀を賜った。
信長が本能寺で討たれると親子そろって徳川家に奉公。天正10年(1582年)、徳川家康の元で天正壬午の乱に参戦。北条氏直との黒駒合戦では自分のお目付け役でありながら勝成に出陣を知らせず単独で行動した鳥居元忠の抜け駆け行為を非難したうえで数百人の手勢を引き連れながら先陣を切って1万もの北条軍に突撃し、内藤某を含む300の首級をあげ、徳川軍の勝利に貢献した。
勝成19歳の出来事である。しかし父親からは命令違反を咎められた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、三好信吉(豊臣秀次)を攻撃した際、結膜炎の眼痛で兜ではなく鉢巻を巻いていたことを父・忠重に叱責された。「兜をせずしてどうするつもりか、その兜は尿桶か。」と、至極もっともなことをいう忠重に逆上し、「兜がなくて死んでも時の運。自分が一番首を取るか、自分が一番首になるか見ているがよい」と言い残し暇乞いして、敵陣に一番槍で突撃、三好軍の重臣・白井備後の影武者を打ち取り一番首をあげ、家康の元に合流する。井伊直政軍に属し、「鬼武蔵」こと森長可を家臣の足軽・杉山孫六が射殺する殊勲をあげた。
その後、豊臣秀吉軍との睨み合いが続く中、桑名の陣中にて自分の品行の悪さを報告した、父・忠重の家臣富永半兵衛を斬殺したことで、激怒した忠重から奉公構(他家への仕官禁止)を受けて勘当されてしまう。「勝成を雇った家は、水野家の敵である」と見なされる処分では、さすがの家康でさえ勝成をかばうことはできなかった。
行き場を失った勝成は京都に流れ着き、無頼の徒と交わったり、大喧嘩で多くの人を殺傷する騒ぎを引き起こす。
21歳の出来事である。
浪人時代、戦国最強のフリーランス
奉公構を言い渡されて困った勝成は偽名を使って他家へ仕官。勝成の武勇を欲した豊臣秀吉、佐々成政、黒田官兵衛、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ、まるで傭兵のごとく渡り歩いた。
天正13年(1585年)、羽柴軍仙石秀久の家臣として、四国征伐に参戦する。その戦働きを秀吉から評価され、摂津国豊島郡700石の知行を賜わされるが、何があったのか受け取ることなく大慌てで逃亡した。秀吉から刺客を送られたことから、とんでもない事をしでかしたと想像されるが、詳細は不明である。
秀吉の目から逃れるため六左衛門と名乗り九州へ。その意は「ろくでなし」からとられたと言う。
天正15年(1587年)、佐々成政に1,000石で仕え、肥後国人一揆では一番槍をあげ、隈本城救援軍の先鋒を任される。武装した農民程度では相手にならず、救援に来た立花宗茂家臣と共に、熊本城救援を成功させた。
しかし一揆鎮圧後、成政は秀吉から一揆を起こした責を負って切腹させられたため、主家を失った勝成は黒田官兵衛に仕える。
黒田家に1,000石で仕え、豊前国一揆では長岩城攻めで撤退する黒田軍の殿を後藤又兵衛と争った。その後、嫡男の黒田長政が秀吉に拝謁するため、海路、大坂へ向かう船に随行するが、備後国鞆の浦で下船し、出奔する。
操船の手伝いをさせられて憤慨した、秀吉のいる大坂へ行きたくなかったためと推測される。
天正16年(1588年)、小西行長に1,000石で仕え、天正天草合戦では行長の弟・小西主殿介の副将として参戦し、出陣命令がでてないのに加藤清正軍と共に志岐城を落とし、さらに本渡城を落とした。その後、何かが癪に障ったのか鎮圧後に出奔するわけだが、このとき、行長の本陣に首を投げつけたとか、主殿介に手傷を負わせたとかの逸話あり。
その後、清正・宗茂と主君を変えるがやはり長続きせず出奔する。
出奔後、虚無僧になったり姫谷焼の器職人になったり、流浪生活を経て、文禄3年(1594年)、備中成羽の鶴首城城主たる三村親成の食客に落ち着いた。しかし、無礼打ちとして茶坊主を斬って出奔してしまう。
しかし、居心地がよかったのか、再び食客となり、世話役の娘に手を出し、後の嫡男・水野勝俊をもうける。自由すぎる。
父との和解、関ヶ原と大坂の陣
慶長4年(1599年)、秀吉が亡くなり戦の気配を感じ取ったのか、妻子を残して上洛し、家康の家臣となった。家康のとりなしもあって父・忠重と15年ぶりに和解する。
しかし慶長5年(1600年)、会津討伐に従軍中、忠重が石田三成の刺客である加賀井重望に殺害されたため、家康の命により、刈谷城に戻り家督を相続、3万石の大名となる。
関ヶ原の前哨戦として、当初東軍に参加するはずだった島津義弘軍が扱いの悪さを理由に火縄銃で家康軍を威嚇。かの本多忠勝、井伊直政から「相手にできるのはお前しかいない。」と押し付けられて参陣。さしもの義弘も少数で勝成相手だと部が悪いと悟ったのか早々に撤退した。
関ヶ原の戦いには参戦できず、大垣城の抑えを任される。しかし、自身の抑えはきかなかったのか、同じく抑えを任された津軽信枚(為信の次男)らを率いて、大垣城を攻める。攻城側3,000余に対し守城側7,500余の一見、無謀な城攻めを始めてしまうが三の丸を落とし、二の丸を攻めたのちに撤退、その後、関ヶ原の戦い勝利を聞き、敗残兵を城内に入れさせ、士気の瓦解を図る。
さらに旧知の秋月種長(上杉鷹山の先祖)を誘い、種長の弟・高橋元種ら諸将への内応を持ちかける。内応は成功し、兵士への逃散を呼びかけため、窮した守将・福原長堯は降伏した。城兵の中に、忠重を殺害した重望の息子がいたため、これを殺害して敵討ちとした。
戦後、勝成は石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大路を引き回されていくとき、勝成は用意していた編笠を被せた。かつて世話になった行長への、せめてもの手向けである。
慶長6年(1601年)、従五位下に叙任、日向守を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、忌避する者が多かったが、勝成は逆にこれを欲したという。家康は光秀の武功にあやかれと、光秀所用の熊毛の朱槍を授けた。以後、その勇猛ぶりから、鬼日向と渾名された。
慶長13年(1608年)勝成は備中から妻子を呼び寄せ、嫡男・勝俊は家康の子息である徳川秀忠に仕えた。
慶長19年(1614年)からの大坂の役に参戦し、大坂冬の陣では、勝成は勝俊と共に参陣するも目立った戦いの機会が無かった。しかし慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和方面軍の軍監(軍の総大将)となり、奈良に進出した大野治房軍と対した。鬼日向の異名は敵軍にも知れ渡り、治房軍は勝成の馬印を見て、戦わずに退却した。
そのまま大和方面軍の諸将と合流し進軍を続け、道明寺村付近にて大坂方の軍勢が立ちはだかるが、その軍を指揮するのはかつて黒田家で一緒に殿を務めた後藤又兵衛だった。戦の前、家康からは「もういい年した軍の総大将なんだから絶対に先陣を切るな。」と前フリのようにきつく釘を刺されていたが、それを聞く勝成ではなかった。一気に血がたぎった勝成は家康の忠告を無視して一番槍をあげ、後藤又兵衛の軍を壊滅させ、英傑薄田兼相を討ち取った。この時御年52歳である。
興奮冷めやらない勝成は死傷者が多く武器弾薬が尽きかけている伊達政宗軍と共に真田軍を追撃することを提案。政宗はさすがに無理だと主張するも勝成は承諾せず、最終的に使者ではなく正宗本人が勝成を説得しに行った。
天王寺の戦いでは真田幸村軍と毛利勝永軍が決死の突撃を始めると家康軍は(油断しきってたこともあり)早々に瓦解。見かねた勝成はまたも命令を無視し真田軍の後方を遮断、壊滅させ、毛利軍を撤退させる。続く明石全登軍との戦いでも先陣を切り、首級2つをあげ、配下が全登を打ち取った。
そして大阪勢の本拠地である大坂城内に攻め入り、桜門に一番乗りの旗を掲げた。
この戦で勝成は自軍の被害甚大なれど大坂五人衆の本隊ほぼ全てを叩く大戦果を挙げる。
戦後の論功行賞で戦功第二(一位は幸村を討った孫)と認められ3万石加増のうえ、大和国郡山へ転封となる。しかし最低でも10万石の知行を期待していた勝成はこれに憤慨する。家康からの厳命に反したことが原因だとされる。
しかし、秀忠から家康隠居後に10万石の知行を賜ることを諭されたことで渋々承諾した。
まさかの名君時代。しかし戦は忘れられず…
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い、勝成は従来の約束通り備中国西南部及び備後国南部10万石に加増転封となる。そこから勝成は、放浪時代に培った人脈、知識、経験を大いに活かし福山の文化・経済・産業の振興に尽くし、近隣の領主が目を見張るほどの素晴らしい治世を始めた。
まず始めたのは新城の築城だった。海上交通を重要視した勝成は城郭を福山に移転、福島正則改易の理由ともなった「新規築城禁止」「城の軍事要塞化禁止」の厳命を例外的に放免され、5重の天守、7基の3重櫓、巨大な多聞櫓を備えた約8万坪の福山城を建設した。特例的に認められた近世城郭最後の城であった。
その後、勝成は浪人時代に2度も世話になった三村親成を家老に迎え入れ、他にも世話になった在地領主や郷士らを積極的に登用した。民心を理解していた勝成は優秀な参謀を手に入れたことで、数々の優れた政策を実施した。
- 城下町の入植の際、自分の力のみで屋敷等を建造する者は、道具や営業地が無償で貸し出され、土地税と役務は永年免除された。
- 上水道網(福山旧水道)を整備して飲料水と農業用水を確保。また城下町を氾濫から守るため、新田造成、ため池、用水路などの施策も取り入れた。工事費用は藩の財政で賄い、町民に負担を強いることはなかった。この上水道網は神田上水、赤穂水道と共に「日本三大水道」と称された。
- 町人町として神島三町(上市・中市・下市)を形成。職人・商人らを集団で住まわせ産業を推奨。全国初となる「藩札」を発行し通貨量を調整した。
- 瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させ海上交通を整備。
- 荒廃していた備後国内の寺社を再建・復興。旧領の刈谷や大和郡山からも寺社を移転させた。
- 高級畳表である「備後畳表」を幕府に献上するため 9 か条の定法を制定し,沼隈郡 26 か村にて作製を開始した。
以上の政策から福山の経済は安定、表の石高は10万余りだが実質的な石高は20万を軽く超えていると見込まれている。勝成が治めていた時代は目付や監視役、法令がなくとも一揆など一度も起らなかった。また家臣の反目等も全くなく、「江戸初期の3名君」と呼ばれる池田光政も勝成を「良将の中の良将」と評した。
寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請され、九州の大名以外で唯一参戦する。このとき勝成は75歳の老齢であったが、嫡男の勝俊、孫の勝貞とともになんと親子三世代で参陣。軍議において総攻撃を提案し、これを受諾した幕府軍の攻撃により、島原の乱は鎮圧。
水野軍は最後方にいたにもかかわらず有馬軍と本丸一番乗りを争った。
寛永16年(1639年)、隠居して一分斎と号する。それでも隠居料1万石を領内開発に費やすなど、藩政には関与を続けた。
慶安4年(1651年)、88歳でこの世を去った。
誰よりも先に戦場を駆けた命知らずな生涯にもかかわらず、長寿の末の大往生だった。
人物
- 徳川家康は従兄弟、鳥居元忠は義理の従兄弟、加藤清正は義理の兄弟、酒井忠次は義理の叔父、徳川秀忠は乳兄弟にあたる。
- 徳川家康の母・於大の方に家督相続の際、「やっと、水野家にまともな後継ぎができた」と話したという。
- 藤堂高虎と同様に主君を何度も変えている事で有名だが、主君を冷静に見定めたが故に変えていた高虎と異なり、勝成の場合は「主君と価値観が合わない」という我儘な理由からに過ぎず、前半生は気性の激しさ故に主家で何らかの問題を起こしては出奔するという行為を鉄板ネタのごとく繰り返しており、その噂を知っている者達からは呆れられていた。
- 15年に及ぶ放浪生活は勝成に大きな影響を与えた。見聞した知識、様々な経験を藩政に生かし、下々の情を解する名君と称えられるに至った。
- 倫魁不羈(りんかいふき) あまりにも凄すぎて、誰にもしばることができない、と評されている。
- 勝成あら者にて、人を物ともせず、と評されている。
- 能楽を好み、秀忠から伏見城の組立式能舞台を賜り、演能したという。
- 俳諧を好み、連歌や和歌を嗜み、言葉の使い方や字句の配置は質の高いものであったという。
逸話
- 放浪時代、旅館に無銭で宿泊中、旅館の娘が病気にかかり、家族が途方に暮れていた。勝成は自分の垢を丸めて、秘伝の丸薬と称して娘に飲ませた。娘の病気は快方に向かい、家族に感謝された勝成は、路銀と謝礼をもらった。
- 旅館に宿泊中、盗人に太刀と脇差を盗まれた。勝成は全裸で追いかけて、これに追いついて盗人を殺害して盗品を取り返した。
- 大垣城開城の際、福原長堯から正宗の刀を奪っている。勝成の官名・日向守から、以後、この刀は日向正宗と呼ばれ、国宝に指定されている。これに情を絆されたかは知らないが、勝成は長堯の助命を願い出るが叶わず、長堯は切腹した。
- 慶長12年(1607年)、歌舞伎女・出来島隼人を身請けし、翌年、京都で歌舞伎公演を行い、京都の若者で見ない者はいないほどの盛況ぶりだったという。
- 大坂冬の陣に、彼の軍に宮本武蔵が参戦していた。
- その為、家臣の息子である平手造酒之助が武蔵の養子となった。
- 慶安3年(1650年)、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、それを的に当てて、人々を驚かせた。
余談
- グレート家康公「葵」武将隊、刈谷城築城盛り上げ隊の一人に選ばれている。
- 刈谷市のマスコットキャラクターのモチーフになっている。
- 水野勝成記念という地方競馬の大会がある。
- 幡随院長兵衛を暗殺した町奴水野十郎左衛門は彼の孫である。
- 近年の著作では、戦国最強フリーターの異名で呼ばれている。
- ジュブナイルポルノ「戦国艶武伝」の主人公となっている。
- アンサイクロペディアがほぼ真実しか書いていない。