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水野勝成

みずのかつなり

水野勝成は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三河刈谷藩、大和郡山藩を経て、初代福山藩主。
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生年:永禄7年8月15日 (1564年9月30日)
没年:慶安4年3月15日 (1651年5月4日)
領主の嫡男でありながら、前半生は槍働きを売りとした渡り浪人として、数多くの主君に仕えては出奔することを繰り返した。後半生は名藩主として、現在の福山市の基盤を作り上げた。

生涯

水野忠重の嫡男として生まれる。幼名を国松、通称を藤十郎と言った。天正7年(1579年)の高天神城の戦いで初陣し、首級をあげて、織田信長より感状と左文字の刀を賜った。

天正10年(1582年)、徳川家康の元で天正壬午の乱に参戦し、黒駒合戦では鳥居元忠の抜け駆け行為を非難したうえで、先頭を切って敵軍に突撃し(←おい)、多くの首級をあげて、徳川軍の勝利に貢献した。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、三好秀次を攻撃した際、結膜炎の眼痛で兜ではなく、鉢巻をしていたのを忠重に叱責されたのに反発し、暇乞いして、敵陣に一番首を取って、家康の元に合流する。井伊直政軍に属し、鬼武蔵の異名を持つ、森長可を家臣の足軽・杉山孫六が射殺する殊勲をあげた。

その後、豊臣秀吉軍との睨み合いが続く中、自分の品行の悪さを報告した忠重の家臣を斬殺したことで、忠重から奉公構(他家への仕官禁止)を受けて勘当されてしまう。行き場を失った勝成は、京都で無頼の徒と交わったり、大喧嘩で多くの人を殺傷する騒ぎを引き起こす。

天正13年(1585年)、仙石秀久の家臣として、四国征伐に参戦する。その後、秀吉から摂津国に知行を与えられるが、間も無く出奔し、六左衛門と名乗る。その意は、ろくでなし、からとられたと言う。秀吉から刺客を送られたことから、とんでもない事をしでかしたと想像されるが、詳細は不明である。

天正15年(1587年)、佐々成政に千石で仕え、肥後国一揆では一番槍をあげ、隈本城救援にも功績があった。救援に来た立花宗茂家臣と共に、平山城救援を成功させた。肥後国人一揆鎮圧後、成政は責を負って切腹させられたため、主家を失った勝成は黒田長政に仕える。
豊前国一揆では長岩城攻めで撤退する黒田軍の殿を後藤基次後藤又兵衛)と争った。長政が秀吉に拝謁するため、海路、大坂へ向かう船に随行するが、備後国鞆の浦で下船し、出奔する。操船の手伝いをさせられて憤慨した、秀吉のいる大坂へ行きたくなかった、ためと推測される。

天正16年(1588年)、小西行長に1,000石で仕え、天正天草合戦では行長の弟・小西主殿介の副将として参戦し、加藤清正軍と共に志岐城を落とし、さらに本渡城を落とした。戦後、行長の元から去り、清正、宗茂と主君を変えるが長続きせず、出奔する。

出奔後、流浪生活を経て、文禄3年(1594年)、備中国成羽の国人・三村親成食客に落ち着いた。しかし、茶坊主を斬って出奔してしまう。しかし、居心地がよかったのか、再び食客となり、世話役の娘に手を出し、後の嫡男・水野勝俊をもうける。

慶長4年(1599年)、妻子を残して上洛し、家康の家臣となった。父・忠重と15年ぶりに和解する。慶長5年(1600年)、会津討伐に従軍中、忠重が殺害されたため、家康の命により、刈谷城に戻り、家督を相続する。

関ヶ原の戦いには参戦できず、大垣城の抑えを任される。しかし、自身の抑えはきかなかったのか、抑えを任された諸将を率いて、大垣城を攻める。攻城側3千余、守城側6千余の一見、無謀な城攻めを始めてしまう。三の丸を落とし、二の丸を攻めたのちに撤退、その後、関ヶ原の戦い勝利を聞き、敗残兵を城内に入れさせ、士気の瓦解を図る。さらに知り合いである秋月種長を誘い、諸将への内応を持ちかける。内応は成功し、兵士への逃散を呼びかけため、窮した守将・福原長堯は降伏した。城兵の中に、忠重を殺害した相手の息子がいたため、これを殺害して敵討ちとした。

戦後、刈谷城の改修を行い、近世城郭へと発展させた。慶長6年(1601年)、従五位下に叙任、日向守を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、忌避する者が多かったが、勝成は逆にこれを欲したという。家康は光秀の武功にあやかれと、光秀所用の熊毛の朱槍を授けた。以後、その勇猛ぶりから、鬼日向と渾名された。

慶長19年(1614年)からの大坂の役に参戦し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、大和方面軍の先鋒大将となり、奈良に進出した大野治房軍と対した。鬼日向の異名は敵軍にも知れ渡り、治房軍は勝成の馬印を見て、戦わずに退却した。

大和方面軍の諸将と合流し、道明寺村付近でかつての同僚・後藤基次軍と交戦する。徳川家康からは、自ら先頭に立って戦うなと厳命されたが、それを聞く勝成ではなかった。一番槍をあげて、基次軍を壊滅させ、薄田兼相を討ち取った。

天王寺へ向かい、真田信繁真田幸村)軍の後方を遮断してこれを壊滅させる。続く明石全登軍との戦いでは、自ら槍を取って、首級2つをあげて、これを撃退する。大坂城内に攻め入り、桜門に一番旗を立てた。

戦後の論功行賞で3万石加増のうえ、大和国郡山へ転封となる。大幅な加増を期待していた勝成は、これに憤慨する。家康からの厳命に反したことが原因だとされる。しかし、徳川秀忠から10万石の知行を約束される。破壊された城を修復し、城下を整備した。

元和5年(1619年)、備中国西南部及び備後国南部10万石に加増転封となる。海上交通を重要視し、瀬戸内海に近い現在の福山に新城を築城する。新規築城を禁じた中で例外的に認められた近世城郭最後の城であった。在地領主及び郷士を積極的に登用した。新田開発、治水工事、殖産興業、鉱山開発を盛んにして、現在の福山市の礎を築いた。

寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請され、九州の大名以外で唯一参戦する。このとき勝成は75歳の老齢であった。軍議において、総攻撃を提案し、これを容れた幕府軍の攻撃により、島原の乱は鎮圧された。

寛永16年(1639年)、隠居して一分斎と号する。隠居料1万石を領内開発に費やすなど、藩政には関与を続けた。慶安4年(1651年)、88歳でこの世を去った。

人物

  • 徳川家康は従兄弟、鳥居元忠は義理の従兄弟、加藤清正は義理の兄弟、酒井忠次は義理の叔父、徳川秀忠は乳兄弟にあたる。
  • 徳川家康の母・於大の方に家督相続の際、「やっと、水野家にまともな後継ぎができた」と話したという。
  • 前半生は気性の激しさゆえに、主家で何らかの問題を起こし、出奔するという行為を鉄板ネタのごとく繰り返した。
  • 15年に及ぶ放浪生活は勝成に大きな影響を与えた。見聞した知識、様々な経験を藩政に生かし、下々の情を解する名君と称えられるに至った。
  • 倫魁不羈(りんかいふき) あまりにも凄すぎて、誰にもしばることができない、と評されている。
  • 勝成あら者にて、人を物ともせず、と評されている。
  • 隣国の藩主・池田光政からは、良将の中の良将、と評されている。
  • 能楽を好み、秀忠から伏見城の組立式能舞台を賜り、演能したという。
  • 俳諧を好み、連歌や和歌を嗜み、言葉の使い方や字句の配置は質の高いものであったという。


逸話

  • 放浪時代、旅館に無銭で宿泊中、旅館の娘が病気にかかり、家族が途方に暮れていた。勝成は自分の垢を丸めて、秘伝の丸薬と称して娘に飲ませた。娘の病気は快方に向かい、家族に感謝された勝成は、路銀と謝礼をもらった。
  • 旅館に宿泊中、盗人に太刀と脇差を盗まれた。勝成は全裸追いかけて、これに追いついて盗人を殺害して盗品を取り返した。
  • 大垣城開城の際、福原長堯から正宗の刀を奪っている。勝成の官名・日向守から、以後、この刀は日向正宗と呼ばれ、国宝に指定されている。これに情を絆されたかは知らないが、勝成は長堯の助命を願い出るが叶わず、長堯は切腹した。
  • 石田三成小西行長安国寺恵瓊が大路を引き回されていくとき、勝成は用意していた編笠を被せた。
  • 慶長12年(1607年)、歌舞伎女・出来島隼人を身請けし、翌年、京都で歌舞伎公演を行い、京都の若者で見ない者はいないほどの盛況ぶりだったという。
  • 大坂冬の陣に、彼の軍に宮本武蔵が参戦していた。
  • 慶安3年(1650年)、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、それを的に当てて、人々を驚かせた。


余談

  • グレート家康公「葵」武将隊、刈谷城築城盛り上げ隊の一人に選ばれている。
  • 刈谷市のマスコットキャラクターのモチーフになっている。
  • 水野勝成記念という地方競馬の大会がある。
  • 近年の著作では、戦国最強フリーターの異名で呼ばれている。
  • ジュブナイルポルノ「戦国艶武伝」の主人公となっている。
  • アンサイクロペディアがほぼ真実しか書いていない。


外部リンク

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