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上杉鷹山

うえすぎようざん

江戸時代中期の米沢藩主。藩主時代の名は上杉治憲だが、隠居後に名乗った鷹山の名で知られている。
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概要編集

上杉鷹山として知られる上杉治憲出羽国米沢藩9代目藩主

高鍋藩秋月家から養子として上杉家に入り、財政難にあえいでいた米沢藩を立ち直らせ中興の祖と呼ばれた。学問の振興と産業の発展も図り、江戸時代屈指の名君として知られる。

ことわざの為せば成るは、彼の詠んだ短歌「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」から。


鷹山を名乗ったのは隠居後で、米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま)が由来。

アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディからも尊敬する政治家としてその名が挙げられている。


生年寛延4年7月20日(1751年9月9日)
没年文政5年3月12日(1822年4月2日)
勝興→治憲
幼名松三郎(秋月家時代)→直松
公称・官名-
  • 直丸
  • 弾正大弼
  • 越後守
鷹山

生涯編集

日向国(現在の宮崎県)高鍋藩藩主「秋月種美(あきづきたねみつ)」の次男として、江戸で生まれる。幼名「直松」。母の「春姫」は、四代目米沢藩主「上杉綱憲(うえすぎつなのり)」の孫娘だった。母方の曽祖父である綱憲の実父は忠臣蔵で有名な「吉良上野介」であり治憲の高祖父になる。


宝暦10年(1760年)に8代目米沢藩藩主「上杉重定(うえすぎしげさだ)」の婿養子となり、明和3年(1768年)の元服の際に徳川家治偏諱を拝領して、「治憲(はるのり)」と改める。明和4年(1767年)に数え年若干17歳で米沢藩主に就任。


当時米沢藩は極度の財政悪化に加え、重定の側近「森平右衛門」による専制政治への不満を募らせた藩士により幕府目安箱への箱訴が起こるといった混乱の極みにあり、重定が幕府へ領地返上を申し出るなど存亡の危機に立たされていた。


治憲は食事は一汁一菜、服は木綿質素倹約を心がけた。

竹俣当綱」や「莅戸善政」などの人材を登用し、養蚕事業、養殖など特産品の生産に力を注ぐ。また食べられる野草とその食べ方、逆に食べれば死に至るものを記した「かてもの」を執筆して配布し、飢饉に備えた。


上杉家の伝統と格式を重視する家中の反発は激しく、1773年には、保守派の重臣7人から訴状を受ける「七家騒動(しちけそうどう)」が起きる。だが彼らは先代藩主の重定の激怒を買い、治憲の政策を支持する家臣の存在もあって(加担した重臣のうち2名も改革自体は支持していたが、保守派の暴発を恐れて強訴に加わったとも)、加担した重臣は切腹及び改易、閉門・蟄居及び石高削減などの厳罰を受けた。


天明5年(1785年)、前藩主の実子の「上杉治広」に家督を譲り35歳で早くも隠居するが、治広の体が丈夫でなかったこともあり、この後も治憲が後見として藩政を取り仕切っていた。


文政5年(1822年)、72歳で死去。実子の「上杉顕孝」は早世したため直系の子孫はいないが、米沢藩において鷹山の業績は上杉家家祖「上杉謙信」と並んで顕彰された。


上杉鷹山を演じた俳優編集

『NHK正月時代劇 上杉鷹山-二百年前の行政改革-』:筒井道隆

上杉博物館内 常設展示コーナー ミニシアター:西村和彦

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