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明石全登

あかしぜんとう

明石全登とは、戦国時代から江戸時代前期の武将。通称は掃部頭(かもんのかみ)で、明石掃部とも言う。
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概要編集

備前保木城主の明石行雄の子として生まれる。

父は天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、宇喜多直家に呼応して寝返り、宇喜多家の家臣として仕える。

その際、キリスト教に入信し、熱心なキリシタン大名となる。洗礼名はジュスト(ヨハネ、ジョアン、ジョアニーなど色々ある)。

その後、宇喜多家でお家騒動が起こると、重臣達が死亡または出奔したため全登が宇喜多家を取り仕切ることとなる。


1600年、徳川家康石田三成が対立し挙兵すると、宇喜多秀家に従って西軍側に付いた。前哨戦の杭瀬川の戦いには勝利したが、関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の先鋒として福島正則の軍勢と戦うが、小早川秀秋の裏切りにより敗戦。斬り死にしようとした秀家を諫めて退却を進言し、自身は殿軍を務めた。


敗戦により宇喜多家が没落し浪人となるが、キリシタン大名であったため黒田如水の下で庇護された。しかし、如水の死後、黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼った。


1614年、大坂の陣が起こると信仰上の問題(豊臣秀頼キリスト教信仰を認める約定を受けたとされる)で豊臣家側に付いて参陣し、彼の元には多くのキリシタン武士が参集し、真田幸村毛利勝永などの名将に並ぶ七人衆に数えられる。

大坂夏の陣では300人ほどの決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、敵の包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。その後の消息は不明で、討ち死にしたという説もあるが、生き延びたという説も多く存在する。またこの後キリシタンによる反乱が後を絶たず、死を恐れぬ信徒たちを彼が扇動しているのではという憶測があり、事実幕府は「明石狩り」と呼ばれるお触れを何度も出している。実は家光の代にも行われているが、そんな時代には彼が生きているはずもなく結果的には無駄骨であった。


余談編集

全登の名前は初見では読むことは難しく、武田「信玄」や上杉「謙信」と同じく入道後に名乗った名、もしくは号であり、素直に「ぜんとう」か、「かげもり(入道する前の景盛という名前では)」、「てるずみ(コーエーではこちらが多い)」、あるいは「ジュスト」の当て字であるという説があるがどれが正しいかは定かではない。


石川県金沢城調査研究所所員で、宇喜多家関係の研究論文を発表している大西泰正氏の見解では「同時代の史料では見当たらない」「本人が名乗っていない」「主君である秀家や宣教師も呼んでいない」ことから、真田信繁が「真田幸村」とケースと同様に後世になって名付けられたものであり、結局のところ「正解はない」としている。


創作物での扱い編集

決戦編集


CV:徳山靖彦


西軍の武将として登場。キリシタンを強調されているのか自身や配下の兵は西洋風の鎧を身に纏っている。合戦で最初の戦闘が始まる際、自身と兵士達とともに「明石ダンス」なる踊りを披露する。ちなみに、兵士は男と女で踊りが変わる(よく見ると一人だけ上手く踊れていない)。


参考動画


戦国無双シリーズ編集


CV:江川央生(2)


武器 槍(2)、薙刀(2emp)


初代から真田丸まで一般武将として登場。

主に大坂の陣や関ヶ原前後の戦で、西軍や豊臣軍として参戦している。


関連タグ編集

戦国武将 中国勢 キリシタン大名

宇喜多直家 宇喜多秀家

明石レジイナ - 娘

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