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浦上宗景

うらがみむねかげ

浦上宗景とは、中国地方の戦国武将。兄の浦上政宗と備前の覇権を賭けて争い、戦国大名として勢力を伸し上げていくが、同盟関係にあった宇喜多直家との度重なる対立の末に備前より追放された。(生没年不詳)
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生涯編集

戦国大名・浦上氏編集

浦上氏は元々播磨守護の赤松氏に仕え、備中の守護代を務めるなど有力家臣として重きをなしていた。しかし16世紀初頭に赤松義村が赤松氏の当主となるや、赤松家中で俄かに冷遇を受けるようになった浦上村宗は主君への謀反を決意。度重なる武力衝突の末に義村を降し、戦国大名としての第一歩を踏み出していた。宗景はその村宗の次男に当たる。


ところが享禄4年(1531年)、室町幕府の有力者である細川氏の内部抗争に絡み、管領・細川高国を支援していた父・村宗が、高国と対立する細川六郎(晴元)との戦いの最中に摂津・天王寺にて討死してしまう(大物崩れ)。この村宗の討死の引鉄となったのは、村宗らの援軍として参陣しながらも、その村宗によって父を謀殺され、自身もまた当主でありながら村宗の傀儡に甘んじていた、赤松政祐(晴政)の裏切りであった。

この事態を受け、浦上氏は未だ幼少であった村宗の嫡男・虎満丸(浦上政宗)が家督を継ぎ、父の仇である政祐との対立姿勢を打ち出す事となる。しかしその数年後に出雲の尼子経久による侵攻を前に政宗と政祐は和睦し、一度は播磨を追われながらも天文13年(1544年)までに幕府の支援を受けてこれを回復。その過程で政宗は赤松氏の筆頭宿老として再び家中で重きをなす一方、松田氏を始めとする備前西部の国人との縁戚関係を通じ、当地や播磨での勢力を強化し主家からの自立を図る素地を培いつつもあった。


家中分裂と兄弟の対立編集

浦上氏にとって転機となったのは天文20年(1551年)、尼子晴久による2度目の備前侵攻であった。この時兄の政宗が尼子氏に従属すべきと決し、尼子だけでなく金川城主・松田元輝らと同盟を結ぶ中、宗景はその方針に異を唱え、尼子と敵対する安芸の毛利元就や、三村家親を初めとする備中衆と結んでこれに対抗姿勢を示した。

両者の対立は当初膠着状態にあったが、宗景方は天神山城や新庄山城などで勝利を重ね、さらには政宗方に与していた砥石城主・宇喜多大和守を討ち取るなど次第に優位を確立していった。政宗方は尼子氏の支援を背景になおも抵抗を続けるも、尼子晴久の急死によってそれも当てに出来なくなった上、主筋の赤松晴政とも対立しさらに勢力を大きく削られてしまう。これに伴い、宗景は備前の支配権を獲得するに至ったのである。


とはいえ、それでもまだ政治面では毛利氏からの介入を受ける立場に甘んじており、美作においても当地に勢力を伸ばしつつあった三村家親とは次第に険悪になるなど、宗景の置かれた立場は決して盤石とは言い難いものであった。また相当弱体化したとはいえ、備前国内には兄・政宗の勢力も未だ健在であった。

この間、宗景傘下の国人衆の中で急速に頭角を現しつつあったのが、後に宗景と備前・美作の覇権を賭けて争う事となる宇喜多直家であり、美作を巡る三村氏との抗争でも中心的な役割を担った。


浦上氏の自立編集

永禄6年(1563年)、長らく対立していた兄の政宗と和解。またこの和解に絡んで、重臣であった島村盛貫中山勝政(備前守)の両名に政治的変化の責を取らせるため、前年の末に誅殺に及んでもいる。これら一連の動きにより、備前国内での不安要素が解消された事を受け、同年のうちに三村氏や毛利氏と断交、戦国大名として本格的に自立を果たした。

その翌年、兄・政宗とその嫡男の清宗が、播磨龍野の赤松政秀の奇襲に遭い討死したのを横目に、三村氏との戦いに専念した宗景は三村家親の暗殺を経て明善寺の戦いで勝利を収め、三村・毛利両氏の勢力を美作国内より駆逐せしめている。

そして永禄10年(1567年)、政宗の遺児・誠宗を暗殺し浦上氏の実質的な棟梁となると、次いで領国で専横を振う松田元輝親子を直家に命じて討滅。これにより瀬戸内海の児島を除く備前全域と、美作東南部へと浦上氏の勢力は拡大する事となった。


しかしこの一連の勢力拡大の過程において、直家が松田氏の旧領・家臣の一部などを取り込む事で備前への影響力を増大させており、またそもそも宗景との関係も家臣というよりはあくまで「同盟相手」に近い半ば独立した勢力であった事が、その後の浦上氏に深刻な影を差す事となるのである。


西播磨平定と直家との対立編集

備前・美作での抗争が一段落付いた永禄12年(1569年)、宗景は播磨西部への侵攻を開始する。名目の上ではかつての主家筋であった赤松晴政則房親子、それに播磨の有力国人小寺政職らの救援を掲げていたが、一方で宗景の真の狙いは浦上政宗を誅殺した後その遺領を吸収し、勢力伸長を続けていた赤松政秀を討つ事にあった。同時期には尼子再興軍の尼子勝久への支援や、大友宗麟との同盟を通じて、毛利氏との対立姿勢もさらに強めていった。

ここまでは順調に見えた宗景の思惑であったが、一方でこの頃足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たしてもおり、苦境に立たされた政秀は予てから誼を通じていた義昭・信長に援軍を要請。これを受けて池田勝正別所安治らの援軍が派遣され、その攻撃に浦上軍は苦戦を強いられることとなる。


一方、そんな宗景との関係性に俄かに隙間風を生じさせたのが、他ならぬ宇喜多直家であった。これ以前より支配体制を巡って両者間で見解の相違があった上、西播磨への進出による浦上氏と幕府との関係悪化に不安を覚えた直家は、密かに信長と内通し宗景への反旗を翻すに至った。

龍野赤松氏や幕府のみならず、味方であったはずの直家までもが敵に回るなど、いよいよ窮地に立たされたかに見えた宗景であったがしかし、幸運な事に宇喜多勢が敵対姿勢を示しながらも積極な攻勢には出ず睨み合いに徹し、さらに6月には政秀が小寺家臣の黒田職隆・孝高親子との合戦で、手痛い敗北を喫する(青山・土器山の戦い)など、宗景を取り巻く状況にも好転の兆しが見え出した。

そして織田からの援軍が、越前出兵などを理由に撤兵したのを好機と見た宗景は、反転攻勢に打って出て11月に政秀を降伏させると、龍野城を始めとする政秀の所領を手中に収め、自身の優位を確立させた。孤立した直家もこれ以上の反抗を断念、当座の共通の脅威たる毛利氏に備えるべく宗景と和睦し、これをもって西播磨を巡る一連の抗争はひとまずの結着を見た。


児島合戦編集

まもなくして宗景は毛利との戦いに向けての準備を進めていく。前出の尼子勝久や美作の豪族・三浦貞広ら反毛利勢力への支援を続ける傍ら、豊後の大友宗麟や阿波などに勢力を有していた三好義継、そして一度は対立していた宇喜多直家とも同盟を締結し、その縁を通じて当時毛利氏との関係が悪化していた能島水軍の村上武吉にも接触を図る。


そして元亀2年(1571年)、宗景は満を持して三村領・児島への侵攻を開始する。児島は瀬戸内海における海運の要衝の一つであると同時に、それまで備前国内で唯一浦上氏の手の及ばなかった地でもあった。この動きに対し毛利氏は小早川隆景を総大将とした軍勢を派遣するが、宗景は毛利軍との直接対決を回避し、能島水軍の蜂起を利用してその動きを封じる一方、宇喜多直家も三村氏と戦端を開いて後方攪乱に及ぶなど、事前の準備を最大限に生かす形で毛利軍にとって不利な情勢を構築していった。

已む無く隆景は全軍での進攻を断念し、分隊による児島への上陸を試みるが、待ち受けていた浦上本隊と篠原長房(三好家臣)の連合軍による攻撃の前に壊滅した。間の悪い事に、この戦いの最中に毛利元就が死去し、父の死の報せを受けた隆景は児島救援の任を断念、安芸への退却を余儀なくされたのである。


智将・小早川隆景を向こうに回して見事な戦いぶりを示した宗景であったが、最大の目的であった児島制圧は遂に果たせずに終わった。東美作に勢力を有していた後藤勝基の離反、それに北九州での大友氏との抗争に区切りを付けた毛利氏の東進がその最大の理由であった。已む無く宗景は足利義昭と織田信長の仲介の元、毛利氏との和睦を図り、元亀3年(1572年)秋にこれを締結するに至っている。


最盛期と転落編集

翌天正元年(1573年)、信長の計らいで別所長治と和解。またこの席で信長より朱印状を与えられ、備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められる。これはかつての守護職に相当する地位を得た事を意味し、既に実質的に赤松氏を凌ぐ勢力を有していた浦上氏は、これにより名目の上でも赤松氏の上位に立つ事ともなった。

かくして浦上氏の最盛期を現出する事となった宗景だが、一方でこの朱印状は小寺・別所といった、本来浦上氏の勢力基盤外である東播磨を治める国人らまでをも浦上の下に置く格好となってしまい、彼らの反感を買う事となってしまった。

そして宗景に反感を抱いたのは、何も東播磨の国人らに限った事ではなかった。先の抗争を機に、浦上氏傘下の国人から完全な独立勢力へと転じていた宇喜多直家にとっても、宗景に備前・美作支配のお墨付きが与えられた事は、(同時期に直家の後ろ盾であった室町幕府が滅亡したのも重なり)正しく死活問題と言っても過言ではなかったのである。


事ここに至り、毛利氏との連携や美作の国人らへの調略によって勢力を固めた直家は、天正2年(1574年)3月に打倒宗景を期して再度挙兵に及んだ。事前の工作もあって緒戦こそ優勢であった宇喜多方であったが、宗景もまた三村氏や三浦氏との連携や、国人らへの引き留め工作を通じて結束を強化、宇喜多方の攻勢を凌いで膠着状態に持ち込んだ。

その後11月に入るとしばらくは休戦状態に入るも、この間直家は密かに播磨の小寺政職と通じ、当時小寺氏に預けられていた浦上久松丸(誠宗の遺児)の身柄を引き取ると、これを浦上氏の正統な当主として擁立し、宗景討伐の大義名分を獲得している。

そして翌天正3年(1575年)4月、直家は久松丸を奉じて再挙。宇喜多氏を支援していた毛利氏が迅速な動きで三村氏を滅ぼし、三浦氏との連絡路も断たれるなど、今度は宗景にとって終始不利な形で戦局が展開。浦上方についていた国人の裏切りも続発し、本拠である天神山城にて籠城する外なくなってしまった。

そして半年後の同年9月、明石行雄(明石全登の父)ら重臣の多くも宗景を見限り城の一角を占拠。これにより天神山城は陥落し、宗景は宇喜多軍の包囲を掻い潜って備前からの退去を余儀なくされた。


その後の宗景編集

備前より逃れた宗景だったが当然このままでいる訳もなく、その後信長傘下にあった荒木村重の支援を得て宇喜多端城を奪還、当地より復権に向けた動きに乗り出す事となる。備前国内にも坪井氏や馬場氏などといった浦上旧臣、それに笹部勘次郎(茶臼山城主)ら反宇喜多の独立勢力が未だ存在しており、宗景はこれらとの連携を強化する一方で天正5年(1577年)までに度々信長に謁見、浦上氏再興への支援を取り付けようとするも不首尾に終わっている。

已む無く宗景は自力での再興を選択し、翌天正6年(1578年)には前出の浦上旧臣らや一族の浦上秀宗を備前幸島にて蜂起させると共に自らも出陣、これにより一時的ながら天神山城も奪還せしめている。しかし宗景らの反攻もここまでが限界だったようで、僅か数か月後の天正7年(1579年)春までには宇喜多軍によって浦上派の勢力は備前国内より一掃され、宗景の備前復帰は遂に果たせぬまま終わった。


備前復帰に向けた動きが潰えるとともに、宗景もまた歴史の表舞台からは姿を消す事となった。その晩年を詳しく伝える資料の存在は今のところ確認されておらず、宗景がいつどこで没したすらかも定かではないが、江戸期に成立した『天神山記』によれば伝承の域を出ぬものの、黒田長政の誘いで筑前に渡った後当地にて出家、70~80代で没するまで余生を送ったとの記述が残されている。またこの他にも宗景の子である成宗の子孫が、紆余曲折を経て備前に戻り土着したとも伝わっている。


主な家臣・傘下武将編集


各メディアにおける浦上宗景編集

  • 戦国無双

武器:槍 声:岡本寛志(特殊邂逅セリフの時は藤本たかひろ)(3) 金本涼輔?(4)


「この乱世、わしのような能力ある者がのし上がる!」(特殊邂逅セリフ)


無双3Empで初登場し、主に備前の国で大名を務める。なお戦史演武・毛利の章ではイベント内で宇喜多直家に追放された事が明らかとなった。


4Empでは固有武将の1人として昇格した。


  • 信長の野望

覇王伝より大名として登場。(前作・武将風雲録では宇喜多直家が大名を務めていた。)能力は知略がやや高い事を除けば器用貧乏なステータス。


配下に直家や宇喜多三家老など強力な武将がいるが、直家は裏切る可能性があるので注意。現在のシリーズでは直家によって追放され、浦上家が滅亡して宇喜多家が誕生するイベントが多い。


殺っちゃえ!!宇喜多さん編集

第6話で初登場。

パリピ。とにかく飲んで騒ぐのが大好きなパリピ。一方でどこか勘の鋭い一面を見せている。


「手駒は多いに越したことはない」としているものの、「去る者は殺す」という残忍な主義の持ち主であり、裏切り者は絶対に許さず、直家に討伐命令を下す。

自分の手は汚さないスタンスであり、ある意味直家以上に不気味といえる。



関連タグ編集

宇喜多直家 浦上政宗 小早川隆景 荒木村重

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