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池田勝正

いけだかつまさ

池田勝正とは摂津池田家当主で池田長正の長男(一説では正久の子)。三好家の衰退後は織田信長に属して戦うが、後に三好家に通じた異母弟・知正(重成)に追放された。(1530年?-1578年)
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概要編集

1530年(1539年とも)、摂津池田家当主・池田長正の嫡男として誕生した。(一説では長正の一族である池田正久の子とも伝わる)異母弟に知正・光重がいる。


1563年に父の長正が死去すると家督を継承して、父と同じく三好長慶に属した。しかし翌1564年に長慶が死去して三好家が内部分裂すると勝正は三好三人衆方に属して松永久秀と争った。


やがて織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると信長と交戦。その実力を知った信長は勝正の能力を認めて領土安堵に加えて伊丹親興や和田惟政と並んで摂津三守護と称させた。


翌年には細川藤孝三好義継と協力して本圀寺の戦いに加勢し、敵陣に一騎駆けにて切り込み織田軍の勝利に貢献。同年に行われた但馬・播磨の平定と浦上宗景の討伐にも参戦した。


1570年には背後から浅井軍の攻撃を受けた信長を救うべく、木下秀吉明智光秀を率いて殿軍を担当して信長を無事に逃がす事に成功した。


やがて同年に弟・知正や荒木村重が三好家に通じると勝正は池田城から追放されるが、信長は勝正を原田城主として任命させて村重の抑えとして藤孝と共に転戦した。しかし信長と義昭の関係が悪化し、更に1571年に村重が信長に降伏すると村重の讒言によって勝正は原田城まで追われてしまう。


ここに勝正は遂に隠棲する事を決意し、1578年に48歳(1539年説ならば39歳)で死去するまで故郷・池田にて余生を送った。


信長の野望編集

史実では文武に秀でたと評価されているのだが、何故かステータスは平凡以下で弟・知正以下という散々な扱いを受けている。


戦国無双編集

武器:刀剣 声:金子英彦


摂津池田の古き一族、池田勝正、参るぞ!」(4Empries特殊台詞)


3以前は弟の知正(2では池田重成名義)が登場していたが、4にて初登場。4Empriesでは固有の見た目を持った武将ではないものの、特殊台詞がある武将の1人として登場した。

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