宗家の養子入り
1549年、三好家当主・三好長慶の末弟である十河一存の長男として生まれる。弟に十河存之、松浦信輝(孫八郎)がいる。幼名:熊王丸。初名は十河重存(そごうしげまさ)、後に重好(しげよし)。宗家に入ってからは三好義存(よしまさ)と改名。1565年初期に義重(よししげ)と改名するが、足利義輝の死後は義継に再改名している。
1561年に父・一存が落馬事故によって死去すると、伯父の長慶により老臣や乳母に養育される事となった。やがて1563年に長慶の実子・義興が22歳で早世した為に後継者の決定を決める会議が行われた。
長慶は当初は義賢の子である長治・存保・神五郎や三兄・安宅冬康とその子である信康を自身の後継者に指そうと考えたが、朝廷では近衛家と九条家が対立していた事から、九条家出身の母を持つ義継が適任と考えて後継者とした。
永禄の変・三好三人衆との確執
1564年には三好長逸や松永久通(松永久秀の実子)ら4000人を従えて上洛して大納言の広橋国光や宮内卿の清原枝賢、三位の竹内季治らを加えて義輝に謁見して家督相続の許しを得る。
まもなく長慶が危篤となると京都から河内へ帰国し、7月に長慶が41歳で没すると三好三人衆の元で三好家当主になった。翌1565年には足利義輝から左京大夫に任官されるが、その後日に二条御所を襲撃して義輝を暗殺する。
まもなく三好三人衆と松永久秀の仲は悪化し対立が表面化した。義継は当初三好三人衆に擁立されて久秀と戦う。しかし三好三人衆が足利義栄を第14代目将軍に推す頃から蔑ろになった事により久秀方へ寝返った。この時に大叔父・康長や安見直政が同時に久秀方に走っている。
その後に東大寺大仏殿の戦いで松永軍が勝利した事で久秀の勢力が持ち直す契機となった。
信長に降伏と反逆・最期
1568年に織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると義継は久秀と同様に信長に協力し、河内北半国と若江城の領有を安堵される。
翌年には三好三人衆が義昭を襲撃(本圀寺の変)するが、義継は畿内の信長方と連携して三人衆を撃退。この功績により義昭の妹を娶る事となった。この事から1571年に突如として松永久秀らと同時に反信長派へ寝返って畠山昭高や細川昭元らを迎撃してこれを倒している。
1573年には御所から追放された義昭を保護したが、この事が信長の耳に入ると信長は激怒し、佐久間信盛を総大将とした織田軍が若江城へ襲来した。義継は抵抗を図るも義昭が既に堺へ脱出した事や若江三人衆の裏切りにより抵抗出来る状況では無かった。
やがて義継は力尽き24歳の若さで自刃して果て、こうして京都で栄華を思いのままにした三好本家は断絶した。
各メディアにおける三好義継
信長の野望シリーズ
戦国群雄伝より初登場したが、現在のシリーズでは特に目立った点も無い凡庸なステータスを持っているだけの武将となっている。
戦国無双
武器:刀剣(3まで) 槍(4) 声:岡本寛志(2) 神谷浩史(3) 金本涼輔?(4)
「鬼十河の子として、恥ずかしくない戦をせねば…!」(遭遇時の特殊セリフ)
「脅しか…久秀…。」
3Empiresでは特殊台詞以外にも松永久秀とのイベントが存在し、父・一存が死んだ事を例えて脅された際に上のセリフを言っている。
4Empiresでは固有武将の1人として登場した。