三好長治
みよしながはる
1553年、三好義賢の長男として生まれる。異父兄に細川真之(父は細川持隆)同母弟に三好存保、異父弟に長宗我部右近大夫(父は長宗我部元親)。母は小少将。
彼が10歳の時(1562年)に父の義賢は久米田合戦で討死した為、家督を継ぐ。有名な分国法である新加制式を定めたり、1566年には足利義栄を将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、全て篠原長房や三好三人衆による家中実力者の主導の結果である。
長治は本圀寺の変(六条合戦)に参戦するが、戦果を挙げる事無く本国に撤退。1570年、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。摂津では細川昭元を総大将にした三好軍が反撃を開始。
そして野田城・福島城の戦いが発生し、三好軍は初期は劣勢であったが、本願寺軍の加勢や朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻すが、後に和睦して本国の阿波に撤退した。
しかし1572年、篠原長房の弟である篠原自遁の讒言に惑わされて翌年・長房を真之と共に討った。(上桜城の戦い)
だが、これが決定打となり暴政を振るい始める。香川之景と香西佳清は連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送り、弟の存保も兄の暴政を咎めて諌めた。
しかし長治は弟の諌めを無視し、3000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした。
更に1575年には三好氏にとって半世紀以上も畿内・和泉における根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、父が晩年に法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしており、長治も信者として阿波の国人や領民に対しても法華宗を強制した。
だが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化。この結果、長宗我部元親の侵攻を招いた。(小笠原成助や新開実綱、井沢頼俊も長宗我部家に寝返っている)
そして翌年には兄の真之と対立。これに乗じて長宗我部元親が真之に協力した事によって不利となる。
1577年、阿波国・荒田野合戦で真之と対戦するが長宗我部軍の力を借りた真之の勢いは止まらず敗北。自刃して果てた。享年24歳。
そして兄の真之も弟の存保の攻撃で討たれ、その存保も戸次川の戦いで戦死する事となる・・・。