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十河存保は讃岐、阿波の戦国武将である。

父は三好長慶の弟、三好義賢(三好実休)であり、兄に三好長治、弟に安宅神五郎がいた。

幼名は千松丸、十河氏を継承したのちは孫六郎、存康、存保と名乗る。

長宗我部元親の四国統一戦における最大のライバルとして立ちふさがった。


概要(生涯)編集

養父、叔父の十河一存が永禄4年(1561)4月に急死し、はじめ、一存の子であった重存(しげまさ)が十河氏の家督を継いだが、重存が1563年、三好長慶の跡取りとなったことから、存保が十河氏の家督を継いだ。


元服後は孫六郎と名乗り、その後に存保と名を改める。

かねてより三好氏と深い関わりにあった大坂・堺に長く在留していたが、阿波三好氏を継承していた兄の長治が細川真之に追われ、自害した事をきっかけに「三好存保」として、阿波へ下向し、三好氏の居城である勝瑞城に入る。


堺に在留中は三好宗家の三好義継を助け、“反・織田”の立場を取っていたが、後に土佐の長宗我部元親が急速に勢いを伸ばしたため、自力での対抗が不可能と判断した存保は大叔父である三好康長を通じて織田信長に従い、信長が構成した四国征伐軍に助力を求めた。


だが、1582年6月2日未明に起きた本能寺の変で、信長は自害し四国征伐は中止になってしまい、本能寺の変後の中央情勢が混乱している最中、長宗我部元親が阿波へ進軍。


8月、勝瑞城下を流れる中富川(現在の吉野川)流域で長宗我部軍と衝突した。

長宗我部軍が2万、三好・十河軍は5千ほどの兵力であったと言われ、数では圧倒的に不利だったが、三好氏のかつての栄華が少なからずも残っており、多くの武器や銃を所持していたため双方で1000以上の戦死者を出したと伝わる。


その後、1ヶ月近く勝瑞城に立て籠もったが、讃岐の虎丸城へ撤退した。長宗我部元親は勝瑞城を讃岐侵攻の拠点とし、三好氏の阿波支配は終焉を迎えた。


本拠地の十河城では十河存之、前田宗清らが奮戦するも1584年に開城、存保は虎丸城に籠り、上方からの救援を待ちながら奮戦を続けた。

1584年秋ごろには堺に脱出したが、虎丸城は落ちなかった。



堺到着後は豊臣秀吉に従い、引き続き助力を求めた。

1585年の四国征伐で最後まで抵抗を続けた長宗我部氏がついに秀吉に臣従。

土佐一国に戻されてしまうと、阿波は蜂須賀氏に讃岐は仙石氏にそれぞれ与えられた。


存保は仙石秀久の与力、「十河孫六郎」として扱われ、讃岐に3万石弱を与えられたが大名として返り咲くことは叶わなかった。


1986年末、豊後の大友宗麟からの援軍要請を受けた秀吉は四国勢を先鋒として薩摩の島津氏を掃討するために派兵を下命する。


存保は長宗我部氏らとともに豊後へ上陸した。

秀吉の軍代となっていた仙石秀久は大友側の鶴ヶ城を救援するため戸次川(現在の大野川)を渡河して自ら島津勢に攻撃を仕掛ける策を強行。


川を渡河中に周囲に潜伏していた多数の島津勢が突如現れ、攻撃を開始。混乱状態の中、先陣にいた仙石秀久だけが敗走し、存保軍や長宗我部信親軍が取り残された。


存保の奮戦もむなしく戸次川の戦いで壮絶な最期を遂げた。

なお、長宗我部元親の嫡男である信親も同じく討死している。


存保の死により、阿波三好氏は歴史の表舞台から消え、十河氏は断絶した。


人物(エピソードなど)編集

異父兄弟に細川真之、長宗我部右近太夫がいるが後世の創作の可能性が高い。


父は三好義賢として広く知られているが、後世に三好氏関連の古文書を解読する過程において「三好義堅」を「三好義賢」と読み違え、父である実休と子である存保を混同し、そのまま義賢という名前だけが広まったというのが、最近の三好氏研究では論じられている。


天正6年(1578)の盆の頃、当時流行していた風流踊り(ふりゅうおどり)の芸能集団をわざわざ京より呼び寄せ、勝瑞城下で踊らせている。

桟敷が設けられ、家臣以下の城下の庶民たちも広く参加することができ、人々は夢のような時をすごしたと江戸時代に書かれた『三好記』にある。

これが後に徳島城下で流行った「組踊り」のもとになり、さらには現在の阿波踊りに通じていくとも言われている。


戸次川の戦いの作戦の際(事実上仙石秀久の戦略説明であったが)、共に戸次川の戦いに戦死した長宗我部信親、その父長宗我部元親と共に仙石秀久の案に反対したとも、長宗我部元親と対立し続けたため、仙石秀久の案を受け入れたとも言われる。


戸次川の戦いの日、十河城下の民が軍旗をもった数百人の兵士達が十河城に入っていく姿を目にし、存保らが戻ってきたのだと思い、城へ行ってみたところ、そのようなことは無いと言われた。

存保らの死が知らされたのは、その数日後だったという話が残っている。


嫡男に十河千松丸がいた。戸次川の戦いに共に連れて行ったが、戦の前に戦地から帰国させている。千松丸は仙石氏の後に讃岐に入った生駒氏の保護下で数千石の領地を与えられていたが、存保の死から時間を経たずして病死した。

戸次川の戦い後に千松丸が生駒氏に伴われて秀吉に謁見した際、秀吉は千松丸をとても褒めていたという話から彼の成長を恐れた生駒氏が毒殺したのではないかという説がある。


余談編集


長宗我部元親を主人公とした司馬遼太郎の小説・「夏草の賦」では、三好家きっての勇将として登場している。

今作では「鬼十河」と呼ばれ、胆の据わった大男として描写されている。

そのイメージは義父の十河一存に近く、四国を追われたことで元親に恨みを抱く執念深い性格になっている。(作中では元親に「性根の小さい男」と言われている)

物語のクライマックスの「戸次川の戦い」では、島津軍の釣り野伏の罠を見抜きながら、臆病と嗤われる事を恐れて軍監仙石秀久の渡河策に賛成し、元親の息子・信親と共に討死している。



信長の野望では編集

全国版に大名として登場。


その後はしばらく三好家の家臣としての登場であったが、覇王伝で再び大名となった。

しかし、織田信長長宗我部元親が勢いを増している時期なので、よほどの根気がなければクリアは困難である。

三好家末期の武将の中では統率・武力に秀でた武将なのだが、いつまでたってもモブ臭漂うグラフィックなのが悲しい。

義父の十河一存は「創造PK」でグラフィックが変わったのに・・・何故だ

あと、「創造PK」のイベント「戸次川の戦い」ではイベントの主要武将でありながら、ほぼ空気と化しており、なお切ない。

コーエーェェ・・・


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