没落
1504年、長宗我部兼序(1466年?-1508年)の長男として誕生。幼名・千雄丸。弟に元春、国康、親吉がいる。
1508年に父・兼序が細川家の後ろ盾を失った事で好機と見た諸豪族の攻撃に敗れて自刃した為、一条房家(一条兼定の曽祖父)によって教育される。彼が15歳になった1518年、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力。
同時に時の管領であった細川高国の偏諱を貰い、元服して国親と名乗る。
国親は吉田周孝を登用して内政や軍備の充実に努めた。国親は元親・親貞・親泰・親益の4人息子と3人の娘がいる。
1544年、本山茂宗の長男である茂辰と自分の娘を婚姻させる。
そして最早一条房家亡き一条家に忠節を尽くす事を嫌ったのか、1547年に天竺氏が籠る大津城を攻めて滅ぼす。続いて横山氏を下して、更に下田城の下田駿河守を倒して下田城を制圧。
果てには細川分家の十市細川家当主・細川定輔を下し、定輔の子である池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔に成功する。
こうして長岡郡南部を制圧し、同時にこの勢力拡大で近隣の領主も恐れをなして布師田や一宮の領主も国親に降伏し、土佐郡南西部も制圧することになった。
1549年には父・兼序を滅ぼした山田氏を殲滅する事に成功し、香宗我部親秀には親泰を養子に迎えさせるなど活躍。(香宗我部家の養子入りには親秀の弟であった秀通が反発したが、親秀は反発した秀通を暗殺している。)
1555年、本山茂宗が死去すると娘婿である茂辰に圧力を強めて反旗を翻し、その5年後の1560年に長浜の戦いにて息子・元親と親貞を参戦させ、1000の兵でたった2500の兵である本山軍を破る。そして浦戸城も陥落させる事に成功するが、長浜の戦い終戦直後に病に倒れて元親に後を譲り、死去した。享年57歳。