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三好義賢

みよしよしかた

三好義賢(実休)とは、四国地方の戦国武将。兄・三好長慶の台頭を軍事・政略の両面から支えた一方、茶道に傾倒し「数寄者」とも謳われるなど、当代きっての文化人としての側面も有していた。(1525年-1562年)
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概要

幼名:千満丸

諱:之相、之虎、義賢?

法号:物外軒実休

官途:豊前守


父:三好元長

兄:三好長慶

弟:安宅冬康十河一存、野口冬長

妻:久米義弘(細川持隆家臣)女

子:三好長治、十河存保、安宅神五郎


室町末期の四国・阿波にて勢力を有していた戦国武将。阿波細川氏当主・細川持隆の家臣として仕える一方、中央政界の実力者として台頭しつつあった兄・三好長慶を補佐し、数々の戦いで戦功を上げる一方、主君である細川持隆を討って阿波細川氏の実権を掌握するなど、三好政権による阿波掌握にも尽力した。


こうした事績などから、「主君を誅殺した陰湿な武将」「文化とは程遠い猛将」としてのイメージが世間に広まったが、こうしたイメージは後世になって成立した軍記物に拠るところが大きく、必ずしもその実像を反映したものとは言い難い。

実際のところ、兄の長慶が和歌・連歌に長けていたのに対し、義賢は茶道に深く傾倒していた人物であったと伝わる。これは父以来の堺町衆との人脈も深く関わっており、当時の茶道の第一人者であった武野紹鴎に師事していた他、津田宗達(津田宗及の父)、今井宗久などといった商人・茶人などとも交流があったという。

千利休の高弟として知られる山上宗二は自著の中で、義賢が実に五十種にも及ぶ名物を所持していた事に触れつつ「武士でありながら数奇者だ」との評を残しており、これもまた義賢の茶道への精通ぶりを裏付ける証左となっている。またこの名物の中には、天下無双の名物とも称賛された「三日月の壺」もあったと言われ、後に織田信長の手に渡り本能寺の変にて彼と運命を共にする事となる。


一般には、記事名にもある通り「義賢」の諱、もしくは出家後の法号に由来する「三好実休」の呼び名で知られているが、実際には当初之相、その後天文年間の末期に之虎へと改名していた事が明らかにされている。

一次史料の上では義賢の名が使われていた形跡がない事、また実子の十河存保が「三好義堅」という別名を用いていた事などから、昨今ではこの存保の事績と混同されたものであろうという見解が呈されている。


生涯

細川京兆家家臣・三好元長の次男として、大永6年(1526年)もしくは7年(1527年)に阿波で生まれる。父が天文元年(1532年)に堺にて横死したのを受け、当時兄・長慶や母らと共に堺に滞在していた義賢も阿波へ帰国、それから間もなく兄と連名で阿波見性寺へ領地を寄進するなど、阿波細川氏当主の細川持隆の元で幼くして政務に携わる事となる。

その後、長慶が細川晴元の家臣として本格的に畿内で活動を始めると、義賢は四国への影響力保持を企図して引き続き細川持隆に仕えたまま阿波に在国、伊予・讃岐方面における河野氏との抗争にも従事した。

晴元や長慶と対立する細川氏綱や遊佐長教らの勢力に対抗すべく、天文15年(1546年)からは阿波の軍勢を率いて畿内へと渡り、原田城や高屋城など摂津の諸城の攻略や、氏綱方との決戦である舎利寺の戦いなどに参加、各地を転戦する日々を送った。


前述の通り、苦しい状況にあった幼少期に庇護者となっていた細川持隆であるが、義賢はその持隆との関係に思いもよらぬ形で幕を引く事となる。

天文22年(1553年)、義賢との対立から阿波見性寺に追い込まれた持隆が自害するという事件が発生した。世に言う勝瑞事件である。事件の原因として、長慶に京都を追われた細川晴元の再起を支援した、もしくは足利義栄を擁立しての上洛を謀ったなど、三好氏との対立姿勢を打ち出した事が挙げられるが、そもそも持隆は長慶と晴元の抗争においてもどちらかといえば三好寄りな立場を取っており、どのような経緯で対立に転じたかは今持って多くの謎が残されている。

ともあれ、事件の後義賢は持隆の遺児である細川真之を、持隆に代わる新当主として擁立しこれを扶育した。一方で自身の舅でもあった久米義広らの持隆派家臣が反乱を起こしたが義賢は鑓場の戦いで彼らを滅ぼしている。この時に冬長を失ったとされる。戦後、国人衆を三好政権の影響下に置き阿波支配を進めていった。ちなみに義栄の父である足利義冬との関係も悪化し義冬・義栄父子は周防の大内義長(実父は大友義鑑宗麟の弟)の元に出奔している。


久米田の戦い

その後も義賢は、畿内における三好政権の軍事活動に四国勢を率いて参戦し、その最中の永禄元年(1558年)には出家し実休と号する。永禄3年(1560年)には三好政権と河内の畠山氏との間での抗争を経て、畠山高政追放後の河内守護を任され高屋城へ移った。

ところがその翌年、和泉方面の支配を任されていた弟・十河一存の急死により事態は急転する。逼塞の身にあった畠山高政や安見宗房らの勢力が、これを好機と見て紀伊にて再挙を図り、同じく三好政権と対立していた南近江の六角承禎と連携して反攻に転じたのである。

この事態に対し、三好方は三好義興(長慶嫡男)や松永久秀らが六角方に当たった一方、畠山方の包囲を受けていた岸和田城への救援として三好長逸ら淡路・阿波衆を動員、さらに実休率いる軍勢も岸和田城に程近い貝吹山城にて布陣、畠山方と対峙した。


三好と畠山による対陣は実に半年あまりに及び、三好方にも疲弊の色が見え始めた永禄5年3月5日(1562年4月8日)、畠山方による貝吹山城への夜襲をきっかけに、両者の間で本格的な戦端が開かれた。当初は畠山方を切り崩すなど優勢に思われていた三好方であったが、前衛である篠原長房の軍勢が先行し過ぎた事により、これを救援すべく三好康長らの軍勢を前線に向かわせたのが、実休の命取りとなった。

篠原隊への救援のため、わずか100騎程度と本隊が手薄な状態となったところを、畠山方の往来右京と呼ばれる根来衆が鉄砲にて攻撃を開始、これに対して実休も深手を負いながらも一歩も退かず、最後まで残った馬廻衆30余りと共に敵陣に斬り込んだ果てに、実休を始め全員が討死したという。享年37、死因については鉄砲による銃撃、もしくは流れ矢と、史料によって相違が見られる。


この合戦の前夜もしくはそれ以前までに、実休は次のような歌を詠んだと伝わっており、これが辞世の句とされている。

草枯らす 霜又今日の日に消えて

  因果は爰に 巡り来にけり

歌の中にある「因果」とは、前述の勝瑞事件における細川持隆殺害の件を指しているとされ、実際にこの歌を詠むのに先立って夢枕に持隆が現れたという逸話も残されている。いずれにせよ、恩義のあった持隆を手に掛けた事を、実休が晩年に至るまで気に病んでいたのが窺えよう。

これに対して弟の安宅冬康は、

因果とは 遙か車の輪の外を

  廻るも遠き 三芳野の原

と詠み直した上で、実休を勇気づけたと言われている。

また実休が討死したその日、兄・長慶は飯盛山城にて連歌の会を催していたが、その最中に弟の訃報に接しながらもこれに動じる事なく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させたという。


ともあれ、この久米田の戦いでの大敗により和泉と南河内は畠山氏によって奪還され、また同時期には六角方が京都を制圧するなど、一時的にとはいえ三好政権を苦境に立たせる格好となった。この後態勢を立て直した三好方は劣勢を挽回し、2ヶ月後の5月19日に発生した教興寺の戦いにて、今度は三好方が畠山方を完膚なきまでに打ち破り、先の敗戦での雪辱を果たしたものの、このわずか1年の間に実休を始め三好一門の有力者が多数喪われた事は、三好政権の前途に暗い影を差す一因ともなったのである。

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