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三好義賢

みよしよしかた

三好義賢(1525-1562)は阿波の戦国大名である。
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概要

幼名は千満丸、本名は之相、之虎など
法号は物外軒実休
官途は豊前守

父:三好元長
兄:三好長慶
弟:安宅冬康十河一存、野口冬長
妻:細川持隆家臣、久米義弘女
子:三好長治、十河存保、安宅神五郎

生涯

三好元長の次男として阿波国で生まれる。
天文元年(1532)6月20日に父が
堺の顕本寺で一向一揆に討たれる。
直前まで堺に滞在していたが、
危機回避のため母や兄の千熊丸(のちの長慶)とともに阿波へ帰国。

父の死後すぐに千熊丸と連名で阿波、
見性寺へ領地を寄進するなど活動再開。

その後、長慶が本格的に畿内で活動を始めると
義賢は残り、阿波守護の細川持隆に仕える。
天文8年、天文11年に持隆の命で伊予・讃岐方面に出陣している。

天文15年(1546)10月22日~天文17年の5月10日頃までは
持隆と共に畿内まで援軍として出陣している。
長慶が仕えた細川晴元が細川氏綱との戦いに苦戦していたためである。

しかし、長慶と晴元の対立が表面化してくると
義賢のみが長慶を助けるため単独で畿内へ出陣するようになった。


長慶や弟らと出陣した畿内の戦い

天文16年(1547)2月20日 摂津の原田城攻略
同年3月22日 摂津の三宅城攻略
同年7月21日 舎利寺の戦いで勝利
同年8月11日 河内の高屋城を安宅冬康と共に攻める

天文18年(1549)江口の戦い

勝瑞騒動

天文22年(1553)6月17日
義賢は細川持隆を阿波の見性寺で自害へ追い込んだ。
讃岐の十河一存の助力もあったという。
兄の長慶が細川晴元と不仲になったことが
きっかけとなり持隆も義賢を遠ざけるようになった。

持隆は義賢を討とうと計画したが
四宮与吉兵衛の内通により義賢が逆に先手を打って
2千余りの兵を潜ませ持隆を竜音寺へ川遊びに誘い出し、
100名ほどの家臣たちを連れて遊山しに来た
持隆らを潜ませていた兵が襲撃、勝瑞の見性寺へ逃れ自害した。

持隆死後、義賢は持隆の子息である
12歳の真之を立てて扶育しながら
阿波支配を進めていった。

舅であった持隆の家臣、久米義弘が
すぐさま持隆を弔うため挙兵したが
これを悉く討ち滅ぼした。

内通者であった四宮与吉兵には知行を与えたが
翌年、主君を裏切った不忠を理由に粛清している。

永禄元年(1558)足利義輝との戦いの最中に
突然出家し実休と号する。

永禄4年(1561)閏3月、幕府相伴衆になる
同年、弟の十河一存が死去した影響により
河内、高屋城へ入城。

永禄5年(1562)3月5日 久米田の戦いにおいて討死

久米田の戦い

和泉方面を支配していた弟の十河一存の死により
反・三好であった畠山高政や根来衆らが
旧領を奪い返すべく出陣してきたため
三好長慶は高屋城にあった義賢にも出陣を命じた。

三好方は久米田寺付近の貝吹山に陣をかまえた。

双方合わせると5万の兵がいたとされ
和泉における最大級の戦とも言われている。

討死については諸説あるが、味方が手薄になったため、
家臣が撤退を勧めたところ義賢は頑として本陣から離れなかったという。
その隙をついて往来右京という根来衆が義賢を銃で狙撃。
この説からいけば、義賢は日本で銃によって討ち取られた
最初の大将であるとも…。
久米田の戦いの大敗により高屋城と
安宅冬康が守っていた岸和田城を畠山氏が奪還。
教興寺の戦いへと続いていく。

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