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三好長逸

みよしながやす

三好長逸とは、四国・近畿地方の戦国武将。所謂「三好三人衆」の筆頭格であり、主君で従姪に当たる三好長慶の存命時より全幅の信頼を置かれるなど、一族の長老格としても重きをなした。(1516年-没年不詳)
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概要

阿波守護代の家柄である三好一族の出身。名前の読みについては「ながゆき」とも。父親については諸説あるが、有力とされているのは芥川長光もしくは三好長則のいずれかで、共に三好之長細川澄元の家臣)を父に持つ。同じく之長の曾孫で、長逸の主君でもある三好長慶は姪孫に当たる。


主君の長慶が若年だった頃、三好氏は主家である細川氏の内紛の中で、一族の大半が命を落としていた。そうした背景から、長逸は一族の年長者として長慶より頼みにされ、長逸もこれに応える形で軍事・政務と幅広く活躍、松永久秀と共に家中の第一人者として、中央政界における長慶の台頭に大きく貢献した。

長慶の死後もその後継者の三好義継に引き続き仕えると共に、三好宗渭(政勝)岩成友通三好三人衆として、長慶亡き後の三好政権の中枢を担ったが、久秀や義継らとは後に家中の主導権を巡って対立、さらに室町幕府の将軍後継者問題で足利義昭織田信長が上洛するに至り畿内より退去。その後も義昭・信長方への抵抗を続けるも、結局消息不明となったまま没落を余儀なくされた。


出身や消息も含め、その経歴や人物像には多くの謎が残る人物ではあるが、そんな長逸に対する数少ない評の一つに「生来善良な人」「教会の友人」というものがある。

これは当時日本にてキリスト教の布教活動に当たっていたルイス・フロイスが残したものであり、永禄の変にてフロイスら宣教師も京都を追われる身となる中、長逸は彼らが堺に赴くまでの道中において家臣らを護衛として同行させ、また道中の通行税が免除されるよう便宜も図っている。

長逸とは対照的に、三人衆の他の二人が「神の掟の敵」と評されたりと、キリスト教徒に対する対応の差が多分に評価に影響しているという点にも留意すべきであるが、少なくとも三人衆の中ではある程度はではあるものの、キリスト教や南蛮人といった存在に対し寛容な面があった事が窺える。


生涯

前出の芥川長光・三好長則の両名とも、永正17年(1520年)に細川高国との抗争に敗れ、三好之長と共に刑死している事から、どちらかが父であるにせよそれ以前の出生であったと考えられていたが、昨今『兼右卿記』(※)の翻刻の進展に伴い、天文20年(1551年)時点で36歳であったことが明らかにされており、そこから逆算すると生年は永正13年(1516年)、前出の長光らが存命していた時期とも合致する。

主君・三好長慶には早くから仕えていたようで、山城や摂津など畿内の三好氏の勢力圏内に対し、所領安堵や年貢の督促の文書を発給したり、後には松永久秀と共に側近・申次を務めるなど政務の面で長慶を支えた他、長慶と細川晴元三好政長との抗争、それに播磨別所氏や丹波波多野氏の討伐など軍事の面でも広く活躍し、三好氏の勢力拡大に貢献する。

こうした功績の高さや、一族の年長者としての信頼の大きさなどから、永禄年間に入るまでに南山城の統治を任された他、久秀だけでなく三好義興(長慶の嫡男)や三好実休(義賢)(同実弟)に先んじて従四位下にも叙せられた。また長慶の晩年には、家督を譲られた義興の京都常駐時の代理として芥川山城も任されるなど、三好家中において非常に高い地位を確立する事となった。


永禄6年(1563年)から翌年にかけ、長慶と義興が相次いで他界すると、久秀や他の三好三人衆の面々らと共に、未だ若年の後継者である三好義継の補佐に当たり、永禄8年(1565年)には、三好氏にとって障害となっていた室町幕府将軍・足利義輝を暗殺(永禄の変)。

しかしこの後、家中の主導権を巡って久秀とは対立関係に転じ、長逸ら三人衆は義継を保護下において久秀討伐の大義名分を得ると共に、本国阿波に残っていたの三好氏の有力家臣・篠原長房や大和の筒井順慶、それに長逸の甥に当たる三好康長らと組んで久秀方に攻勢を加えるが、互いに決め手を欠いたままの抗争はやがて主君・義継の久秀方への鞍替えという事態を招く事となる。

とはいえ、旗印たる次期将軍として足利義栄を擁立した事もあり、戦局は久秀方を大和に封じ込める形で三人衆方の優位に推移していたとされ、また義栄が将軍に就任した際には御供衆にも長逸が名を連ねていた形跡が見られるなど、敵対していた義継と同格の立場にまで登り詰めていた。


しかしそうした優位な立場も、足利義昭を奉じた織田信長の上洛により一気に暗転する事となる。敵対していた久秀や義継が義昭・信長方に接近する中、六角承禎らと組んであくまで対抗姿勢を通した長逸ら三人衆であったが、多年に亘る家中での内紛がもたらした損失は相当なものがあったようで、長逸も芥川山城に籠もるも信長方には敵わず、本国である阿波への撤退を余儀なくされた。

翌年以降も本圀寺の変や、篠原長房らと兵を再編の上摂津へ進軍する(野田城・福島城の戦い)などを通して、義昭・信長方への反攻を継続しており、特に後者は石山本願寺や紀州勢、それに浅井・朝倉連合軍といった諸勢力の攻勢も味方し、一時は織田軍を摂津・河内から駆逐するなど一定の成果を上げた。

もっとも三好方にもこれ以上の追撃の余地は残されておらず、この直後に義昭・信長方とは一時的な和睦を締結する事となった。その後も本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担うも、この頃本国阿波においては協力者であった篠原長房が、主君である三好長治に討たれるなど三好家中は混乱を来してもおり、結果として三好方は積極的な攻勢に打って出られぬまま軍事的に衰退の一途を辿るという有様であった。

そんな中、元亀4年(1573年)に信長との不和から将軍・義昭が決起し、義継や久秀もこれに呼応。ここに至ってようやく、三好家中が反織田という姿勢で統一された。しかし時既に遅く、武田信玄の病死などもあって信長包囲網は次第に瓦解に転じ、同じ三人衆であった岩成友通も淀古城にて戦死。そして長逸もまた、摂津中島城にて織田方に敗れ逃亡したのを最後に、歴史の表舞台からは姿を消す事となった。その後の消息については戦死、隠居、幽閉など諸説あるが、いずれも定かではない。


(※ 室町末期の公卿・吉田兼右の著した日記。兼右は神祇官人として有力者などから祈祷の依頼を引き受けてもおり、その依頼主の年令についても多くの場合併せて記載されているという性質を有している)


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三好長慶 細川晴元 松永久秀 筒井順慶

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