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もしかして編集

二つ名で呼ばれる武将 - 単独の武将異名についてはこちら。


概要編集

「両〜」「三大」「四天王」など、戦国武将武人複数人をまとめて呼ぶ俗称一覧。Pixivではグループタグとして使われている。


記事名が紛らわしいが、武将二つ名については当該記事を参照。また、多くは後年の講談などで喧伝された呼び名であって、生前にそのように呼ばれていたわけでは無いことは注意すべきであろう。


平安時代編集

道長四天王編集

 藤原道長仕えた四名の武人。源頼信藤原保昌平維衡平致頼の四名。 


頼光四天王編集

 源頼光に仕えた四名の武人。渡辺綱卜部季武碓井貞光坂田金時の四名で、特に酒呑童子を退治した伝説は有名である。


鎌倉時代編集

義仲四天王編集

 木曾義仲に仕えた四名の武人。今井兼平樋口兼光根井光親楯親忠の四名。


義経四天王編集

 源義経に仕えた四名の武人。佐藤継信佐藤忠信鎌田盛政鎌田光政の四名とされるが、他に武蔵坊弁慶伊勢義盛亀井重清片岡経春常陸坊海尊駿河次郎と、伝記によって大きく異なるのが特徴である。


京都扶持衆編集

 鎌倉将軍関東鎮撫の為に送られた鎌倉公方のカウンターパートとして直接、鎌倉将軍の旗下に配属された関東の豪族。壇ノ浦の戦いで登場する那須与一も京都扶持衆として関東に封じられ、驚く事に京都扶持衆は安土桃山時代に時代を下るまで存続していた模様である。


室町時代編集

三管領編集

 室町幕府の室町将軍を補佐する三家を指す言葉で、鎌倉幕府に於ける執権に相当する重役。斯波、畠山、細川の三家が交代で勤めることになっていた為、三職という呼ばれ方もされていたらしい。後述の四職との混同に注意。

 この三氏は紛れもない名家であるが、越前遠江尾張守護職を世襲していた斯波氏は応仁の乱でどさくさに紛れて越前を朝倉氏に強奪され、遠江も今川氏に奪われると、最後は御輿で辛うじて祭り上げられていた斯波義銀尾張織田信長に追放されて滅びた。細川家は応仁の乱の主役でもあった大大名、細川京兆家、細川勝元の子である細川政元の代に実子が居らずという事で養子を多数、受け入れながら後継をキチンと定めなかったことから大規模な内乱となり没落。最後の細川京兆家当主である細川信良石山合戦につながる摂津での決起から織田家に降伏し織田信長の娘婿となったが振るわず、豊臣秀吉の代に没落した。但し分家の中で末席であった和泉細川家が大大名として現代まで生存している。畠山氏は紀伊河内越中守護を勤めたが分裂抗争によって勢力縮小し、第二次紀州征伐で御輿の大将として担ぎ上げられるも豊臣秀吉の前に呆気なく屈した。畠山氏は能登にも分家を持っていたが最盛期の上杉謙信織田信長が敵対した際の国境地帯となった為、織田家からの援軍が向かう途中で幼当主が病没し滅びた。


四職編集

 室町幕府の侍所長官を務める四家を指す。正確には所司と呼ばれ、朝廷幕府の警護機能を担当する重役職である。当初は山名、今川、細川、畠山の四家で担当していたが、後に赤松、一色、山名、京極の四家に変わった。この内、戦国の世を生き残ったのは北近江で勢力を保ち続けた京極氏のみで、細川氏も本家の細川京兆家は没落して消息が判らなくなるが、分家の中でも最も小さい家柄であった和泉細川家が大大名として現代まで家名を連ね、近年でも首相として細川護煕を輩出した。播磨備前美作守護職を勤めた赤松氏は家臣に勢力を奪われ豊臣秀吉に下ったが無嗣断絶。庶家も関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、改易される。丹後を本拠地とした一色氏は本能寺の変の後、細川氏の政略で没落し滅亡。中国地方で一時期、大勢力を誇り応仁の乱で主役となった山名宗全を輩出した山名氏も尼子氏、毛利氏、そして織田信長に圧迫され但馬因幡の二国で辛うじて勢力を保持したが、但馬の宗家は織田信長に派遣された豊臣秀吉に滅ぼされた。因幡の分家も家臣に追放されたりと綱渡りを繰り返したが、最終的には山名豊国徳川家康に高家旗本として高禄を得るに至る。


公方編集

 源流は国家権力者に値する天皇将軍などの起源となる言葉で、特に室町時代に入ってからはそれぞれの棲み分けが明確化し、足利将軍家の役職として用いられるようになった。基本的には室町幕府将軍公方と称し、対して関東の鎮守たる鎌倉公方を差す言葉であったが、鎌倉公方が後述の関東管領室町幕府そのものと争う内にやがて室町幕府から派遣された公方鎌倉に入れなくなったりで、それぞれの居住地から古河公方下総国古河)、堀越公方伊豆国堀越)、小弓公方下総国千葉郡小弓)に分裂する事となる。

 そのいずれも後北条氏に滅ぼされる結果となったが、小弓公方だけは後北条氏の庇護下にて小弓公方足利国朝古河公方の後継、足利氏姫を娶る事によって喜連川氏と名を変え名目上のみ生かされ、それが北条征伐後北条氏滅亡の後、転封されてきた徳川家康の保護下に置かれると、最終的に江戸幕府にて五千石足らずの小禄ながら家柄は十万石相当の大大名格として扱われるという、誠に数奇な運命を辿る事になる。こうして喜連川氏は時に養子など迎えはしたものの、家名は明治維新まで続き明治維新後は華族に列せられる。

 基本的には公方といえば足利将軍家と鎌倉公方が主だが他、滅ぼされた家も含めれば篠川公方陸奥国安積郡篠川)、稲村公方陸奥国岩瀬郡稲村)、鞍谷公方越前国鞍谷)、堺公方和泉国堺)、平島公方阿波国平島)、越中公方越中国射水郡放生津)と雨後の竹の子の如く存在する。大抵は応仁の乱以降の室町政権が弱体化した分裂で生じた政権である。


関東管領編集

 室町幕府関東政府である鎌倉公方と呼ばれるポストを補佐する関東管領を世襲していた上杉家を指す言葉。が、この上杉家も実際は派閥に分かれており、山内上杉氏が最大勢力を誇ったが河越夜合戦北条氏康に大敗してからは越後に出奔し、上杉憲政が家来筋に当たる越後長尾氏の長尾景虎関東管領職を譲る(但し憲政御館の乱のとばっちりを受け上杉景勝に殺害された)。扇谷上杉氏は同河越夜合戦で敗北し当主の上杉朝定が戦死し滅亡、残る犬懸上杉氏宅間上杉氏も早くに没落し戦国の世が終わる頃には関東徳川家康が転封され、関ヶ原の戦い会津拝領の上杉氏が米原のみに厳封されてからは跡形も無くなっていた。


三魔編集

 第八代室町将軍足利義政に対して多大に接触して政治判断を迷わせた三人の存在。自らの乳母である今参局(おい)、足利義政の生母、日野重子の従弟である烏丸資任(からす)、摂津国有馬郡を領して将軍近習を務めた有馬持家(あり)の三名を指すが、有馬持家に関しては専横の記録が少なく、活躍、存命した年数もずれている事から、数合わせの可能性も指摘されている。


戦国時代安土桃山時代編集

三英傑編集

 戦国時代の戦国武将の中でも一番有名であり、乱世の日本を天下統一に導いた、共通して現在の愛知県出身である、織田信長豊臣秀吉徳川家康の三名。


織田四天王編集

 織田信長の元で活躍した四人の戦国武将。柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀が該当する。


羽柴四天王編集

 豊臣秀吉が羽柴姓であった頃に活躍した四人の戦国武将。宮田光次神子田正治尾藤知宣戸田勝隆がそれに当たるが、他の四天王に比べて大身になった訳でもなく全員が全員、後継が無く無嗣断絶か追放の上、刑死や切腹という恵まれない最期を遂げているのが特徴。秀吉配下としては後述の賤ヶ岳七本槍の方が有名だろう。


徳川四天王徳川三傑 徳川十六神将編集

 天下三傑として有名な徳川家康の元で活躍した四人の戦国武将。酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政が該当する。最年長の忠次が隠居した後は“徳川三傑”とも称される。家康は手柄を立てても中々加増しない代わりに、余程の事がなければ解雇しなかった為、四天王が揃って顕在し家も続いているのが特徴である。が、晩年の家康は戦場指揮官よりも政治ブレーンを求めた為、関ヶ原の戦い前後で本多忠勝榊原康政は遠ざけられていたようである(酒井忠次は既に没後。井伊直政は政治でも活躍したので寵愛され、最も出世した)。

 更に二代目服部半蔵等12名を加えた「徳川十六神将」、更に4名を加えた「徳川二十神将」、仕舞には「徳川二十八神将」まで存在し、二十八神将は日光東照宮に祀られている。


毛利両川編集

 毛利元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景の二名。いずれも姓に「」の字が入ることが由来とされる。三本の矢の故事で有名だが、長男、毛利隆元は早世したため含まれない。隆元死後、次男の元春でもなく三男の隆景でもなく、隆元嫡男の毛利輝元が毛利家の家督を相続しているのは、当時の世相を知るに貴重な故事である。


両兵衛編集

 “二兵衛”とも。豊臣秀吉の元で活躍した名参謀の黒田孝高竹中重治の両名。いずれも通称が「官兵衛」「半兵衛」と、「兵衛」の字が入ることが由来とされる。なお、読み方については「りょうべえ」もしくは「りょうひょうえ」とも。


武田四天王編集

 武田信玄の元で特に活躍した四名の戦国武将。基本的には馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊山県昌景高坂昌信だが、信玄初期政権下の板垣信方甘利虎泰飯富虎昌小山田昌辰を指す場合もある。


戦国三弾正編集

 室町時代末から安土・桃山時代に於いて官職に弾正を持った優秀な三名を指す。信州真田家初代で「攻め弾正」の真田幸隆武田四天王の一人で退却戦が上手い「逃げ弾正」こと高坂昌信、槍捌きに掛けて天下随一の「槍弾正」こと保科正俊の三名。


武田五名臣編集

 武田信玄が直々に召し抱えていた信玄直臣の足軽大将五名を指す。原虎胤小畠虎盛横田高松多田三八郎山本勘助の五名。山本勘助のみが武田信玄によって直接、登用された人物であり、勘助を除く四名が前線指揮官として活躍しているのに対し、勘助のみは築城や参謀としての幕僚色合いが強いのは興味深い(少なくとも前線指揮官ではなかった)。


武田二十四将編集

 武田信玄を含めた信玄政権下の二十四名を指す言葉。江戸期に創作されたので史実と異なる記載などもある。


上杉四天王編集

 上杉謙信の下に仕えた四名の戦国武将たちを指す名称で、主に柿崎景家直江景綱宇佐美定満甘粕景持の四人を指す。


上杉二十五将編集

上杉謙信に仕えた武将で特に高い評価を得て選出された二十五名を指す名称。


北条五色備編集

 北条氏康上杉憲政を撃破する際にそれぞれを担当した色の備を担当していた五名の武将。

 黄備を北条綱成、赤備を北条綱高、青備を富永直勝、白備を笠原康勝、黒備を多目元忠がそれぞれ担当していた。

 白備は後に清水康英が引き継いだ。


戦国三大梟雄編集

 主家を乗っ取り主人を追放、殺害しと正に下克上を体現して一角の人物にのし上がった三名の戦国武将を指す言葉。具体的には、父が美濃の有力土豪である長井家を乗っ取った長井新右衛門で、最終的には親子二代で美濃国主、土岐頼芸を追放して新たな国主となった斎藤道三、元は三好長慶の家臣ながら長慶の死後、三好家の実権を掌握し室町幕府第十三代将軍である足利義輝を御輿に担ぎ上げ国政を握り、足利義輝が邪魔になると一転して永禄の変足利義輝を殺害し、三好三人衆らとの戦火が原因で過失ながら東大寺大仏殿を焼失させ挙げ句、織田信長が上洛してくると早々に恭順の姿勢を示し大和国を安堵されその実権を掌握した松永久秀、前者二名が道徳、規範を除外すれば極めて合理的に下克上を果たし、政務では善政を敷いた点に対し経歴を見てみれば毒殺に謀殺に離反に虐殺と、寧ろ悪行が趣味だったのではないかと疑いたくなるような宇喜多直家直家をよく補佐した弟の宇喜多忠家も、直家と会う際には必ず鎖帷子を下に着込んでいたとか)の三名を指す言葉。



中国三大謀将編集

 中国地方で謀略を主としてのし上がった尼子経久毛利元就宇喜多直家の三名を指す。但しこの三名は活躍した時期がそれぞれ大凡、一世代ずつずれており、最終的な中国地方は尼子経久亡き後、尼子氏を下した毛利元就の毛利氏が大部分を接収している。宇喜多直家毛利元就没後、毛利隆元毛利輝元の代に備前備中で特に勢力を拡大した。


山家三方衆編集

 室町時代から安土桃山時代に於いて三河国奥三河、信濃国と国境を接する山間の集落を拠点とした豪族三家を指す言葉。長篠の戦いで奮闘した作手村奥平信昌奥平貞昌)を筆頭とした奥平家が三河譜代として明治に至るまで家系を残しているが(奥平信昌徳川家康の娘を娶っているので三河譜代なのである)、この地方は長く侵略に晒されていた為、特に室町時代末に至ってからは甲斐国の武田氏に付くか駿河国の今川氏に付くか、今川氏が衰退すると今度は三河の徳川氏に付くかで従属を余儀なくされていた。故に三家の内、残る二家である設楽町田峰の田峰菅沼氏と鳳来寺町長篠の長篠菅沼氏は長篠の戦いでも武田勝頼に従った為に、零落の一途を辿る事になる。

 忠誠なぞ涙を誘うのみにしかならぬと云う戦国の世というものをまざまざと見せつけてくれるこの三家は当初、今川義元の父である今川氏親によって今川家の配下に置かれた。今川氏が衰退すると徳川氏(当時は松平姓)に属するが武田氏の進攻に降り武田氏配下に。武田信玄没後は徳川氏との内通を疑われた奥平氏のみが徳川方に離反し、甲府の人質が殺害される憂き目に遭っている。何とも厳しい現実である。


西美濃三人衆編集

 美濃国が織田信長の麾下に入る以前、特に西濃地方で巨大な権力を誇った三名を指す言葉。稲葉良通稲葉一鉄)、安藤守就氏家直元氏家卜全)。


府中三人衆編集

 柴田勝家越前国に封じられた折、その麾下で領地の運営を担った三名を指す言葉。不破光治佐々成政前田利家で、筆頭は実は不破光治不破光治は上記の西美濃三人衆に加えて美濃四人衆とされる場合もある。


伊賀三大上忍編集

 数多くの地侍が跋扈する伊賀国で特に権勢を誇った三家の上忍を差す言葉。服部半三保長服部半蔵正成の父)、百地三太夫藤林長門守の三名を差す言葉。このうち服部半三保長服部半蔵正成の父と云う事もあって史料もよく残り非常に著名だが、残る百地三太夫藤林長門守の二名は実在の人物であるかどうかがよく確認できていない。百地三太夫の弟子には石川村の文吾という者がおり、彼が後年に有名な石川五右衛門になったという逸話が残されており、藤林長門守の子孫は伊賀流忍法の教科書として有名な萬川集海を編纂しているとされているが、やはり上記二名は実在の根拠を示す資料が不明で、こればかりは「能き忍者は抜群の成功なりと云とも、音もなく嗅いもなく智名もなく勇名なし。其の功天地造化し」(萬川集海)を体現する見事な忍びであったとしかいいようがない。


摂津三守護編集

 織田信長によって摂津国を統治するよう命じられた三名の武将を指す言葉。池田勝正伊丹親興和田惟政の三名。最終的には三名とも逐われ摂津国統治は荒木村重に命じられるがこれも離反する。


大坂牢人五人衆編集

 大阪の役で豊臣側に付いて活躍した五人の戦国武将を指す言葉。後藤基次(後藤又兵衛) 、真田信繁真田幸村)、毛利勝永長宗我部盛親明石全登の五名。


島津三兄弟島津四兄弟編集

 薩摩国島津家、島津貴久の子である長男・島津義久、次男・島津義弘、三男・島津歳久の三名を指す。また、この三兄弟に異母弟の四男・島津家久を含めた四名で“島津四兄弟”とも称される。


龍造寺四天王編集

 北九州を支配した戦国大名龍造寺隆信に仕えた成松信勝江里口信常百武賢兼円城寺信胤木下昌直五名を指す。何故四天王なのに五名なのかというと、四天王の四人目が円城寺か木下か資料によって記述に違いがあるためである。島津家との沖田畷の戦いにおいて主君ともども五人全員が討死している(木下には生存説もある)


三好三人衆編集

 大内義隆と並んで京都に上洛し一時、安定した政権を造り出す事に成功した三好長慶の一族である三好長逸三好政康岩成友通の三名を指す。織田信長足利義昭を伴って上洛した折、かつての美濃国主である斉藤龍興と結んで義昭の御所である本國寺を襲った六条合戦本國寺の変)や、姉川の戦いが終結した後に石山合戦へと繋がる摂津国での決起が有名である。


賤ヶ岳七本槍編集

 賤ヶ岳の戦いで活躍した七名の戦国武将を指す言葉。福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元の七名を指すが、内の福島正則加藤清正豊臣秀吉の縁者である為、彼らと同列に語るのはほぼ蔑称に等しいので注意。

 加藤清正豊臣秀吉の母、なかの従姉妹かそれに類する女性を母に持ち、福島正則の母は豊臣秀吉の叔母である。豊臣秀吉を頂点として考えた場合、福島正則よりも加藤清正の方が血縁として上座に来るが、それでもこの両名は残りの五名とは比較にならない家柄、地位を持つ。

しかし豊臣秀吉の死後、七本槍の大半は家康に組することとなり、関ヶ原を西軍として戦ったのは唯一糟屋武則だけであった。


伊達の双璧伊達三傑編集

 伊達政宗に仕えた伊達成実片倉景綱の二名を指す。戦での武略に長けた「武の伊達成実」、才智に優れ伊達氏の方針に大きく関与した「智の片倉景綱」とそれぞれ称された。この二名に、執政と外交で活躍した「吏の鬼庭綱元」を加え“伊達三傑”とも称される。


佐野四天王編集

下野国戦国大名佐野昌綱の元で活躍した山上道及大貫武重竹沢定冬津布久弾正四名の戦国武将を指す言葉。


結城四天王編集

下総国戦国大名結城氏の元で活躍した水谷正村多賀谷政広山川朝貞岩上朝堅四名の戦国武将を指す言葉。


尼子十勇士編集

出雲戦国大名、尼子氏滅亡後に尼子氏の復興を背負って嫡男、尼子勝久と共に生きた十人の勇士。尼子晴久が直々に部下四万人余りの中から選び出した選りすぐりの傑物とされる。山中鹿之助を筆頭に、確実に人員に含まれるのは五月早苗介寺元生死助横道兵庫介の四名のみで、後の五名は時代によって移り変わる。


利休七哲編集

千利休の高弟で特に優れた七名を指す。利休切腹後も早い時期からこの名が定着していた様子で、千宗旦在世時の頃から呼ばれ出した名とされる。当初は七人衆と呼ばれていたそうである。が、実際に七人衆が誰であったかを探すと案外と定着がなく、書物に寄れば蒲生氏郷(筆頭)、細川忠興高山右近芝山監物瀬田掃部は確実に名前が入りそうな具合である。他は荒木村重古田重然織田長益牧村政吉といった人物が入ってくる。江戸期に編纂された『江岑夏書』(西暦1662年編纂)には「利休弟子衆七人衆と申候ハ(中略)一番 かもふ飛騨守殿(蒲生氏郷)、五番 瀬田かもん殿(瀬田掃部)、三番 細川越中殿(細川忠興) 三斎ノ事、二番 高山右近 南坊ノ事、六番 牧田兵部太夫(牧村政吉)、七番 古田織部殿、四番 芝山監物殿」と綴られている。


五大老五奉行三中老編集

 豊臣秀吉の晩年から没後、嫡子の豊臣秀頼がまだ幼かった事よりその補佐を任命されたそれぞれ五名ずつを指す。基本的には政権指針を五大老による合議制で定め、政権運営は五奉行に任せるという、謂わば現代の国会議員官僚に当たる。しかし豊臣秀頼が幼かった為、議題の最終決定どう下すのかが曖昧であり、法整備のための時間が無かったこと等もあり、政権運営の混乱と派閥争いを招き、法令に背いてでも自己派閥を強化したい徳川家康を唯一、抑えうる前田利家秀吉没後翌年に逝去した事もあって秀吉死後数年で崩壊してしまった。

 五大老徳川家康前田利家利家死後は嫡子、前田利長)、毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景隆景死後は隆景に後継が居なかった為、上杉景勝)。五奉行は司法担当に浅野長政、行政担当に石田三成、土木担当に増田長盛、財政担当に長束正家、宗教担当に前田玄以が挙がる。

 五大老五奉行の意見に齟齬が見られた場合、調整役として三中老が間に入る事もあったとされるが、実際に機能したという記述には乏しい。三中老生駒親正堀尾吉晴中村一氏の三名。


天下の三陪臣編集

 江戸時代後期、戦国時代武将が述べたとされる言動を纏めた言語録、名将言行録に記されている、天下を任せても人後に落ちぬとされた三名の、秀吉が称賛した陪臣(家老)。直江山城(直江兼続)、小早川左衛門(小早川隆景)、堀監物杯(堀直政)の三名。

 天下の三陪臣は実は名将言行録だけに記されているものでもなく、江戸時代中期に発行された葉隠には三名として直江兼続小早川隆景までは同じであるものの三人目には堀直政ではなく鍋島直茂が挙がっている。



江戸時代編集

柳生四高弟編集

 柳生新影流の流祖である柳生宗厳柳生石舟斎)、或いはその子である柳生宗矩の直弟子であり、特に剣術の才能に優れた五名の人物を指す。具体的には存在が確実視されている木村友重木村助九郎)以外に、庄田喜左衛門狭川新左衛門出淵孫兵衛村田与三のいずれかが列挙されるのであるが、先述の通り木村友重木村助九郎)以外は記述が曖昧でしかも本人達の現存も明らかになっていない為、あくまで逸話の域を出ないというのが現在の結論ではある。


赤穂四十七士編集

 播磨赤穂藩主である浅野内匠頭(浅野長矩)が高家旗本吉良上野介吉良義央)に刃傷沙汰(松の廊下の事件)を働き、様々な怨恨が絡んで浅野長矩のみが切腹、浅野家が(幕命で)取り潰された事件に対して、(本来なら吉良義央にも裁きを下さなかった幕府に弓を引くのは流石に躊躇われるので、八つ当たり先として適当である)吉良義央を、浅野長矩の旧臣で筆頭、大石内蔵助(大石良雄)を初めとする四十七名が江戸吉良邸に討ち入りし吉良義央の首を取って旧主の無念を晴らした上で、事件の責任を取る為に涙の切腹を果たした事で有名な志士達を指す。

 しかしこの元禄赤穂事件については勧善懲悪劇としての話造りから物語が分かりやすいよう、吉良義央が一方的な悪役にされており、完全に非がないとはいえない浅野長矩には全くスポットが当たらない、或いはこの討ち入りによって四十七士こそ悲劇の切腹を申しつけられるものの、浅野家お取り潰しで本来なら浪人になる筈の各面々がこの討ち入りの成果で子孫揃って再就職を果たしているという計算尽くな点も見逃されているのはご愛敬である。

 とまれ、当時の人々から見ても浅野家のみお取り潰しで吉良義央に全くお咎め無しというのはやや公平性に欠けた様子である。


四大人斬り編集

 治安が悪化していた幕末京都で、特に要人を殺害、暗殺した四名の剣士の事を指す。具体的には田中新兵衛河上彦斎岡田以蔵中村半次郎の四名。


維新の三傑編集

 明治維新にてその原動力を司った武士三名を指す。大久保利通薩摩藩)、西郷隆盛薩摩藩)、木戸孝允長州藩)の三名。明治維新によって四民平等が(名目上でも)成し遂げられた為、文字通り「最後の武士」である。維新の十傑も参照の事。


維新の十傑編集

 徳川幕府と戦い明治維新を成し遂げた十名の人物を指す。具体的には西郷隆盛薩摩藩)、大久保利通薩摩藩)、小松帯刀薩摩藩)、大村益次郎長州藩)、木戸孝允長州藩)、前原一誠長州藩)、広沢真臣長州藩)、江藤新平肥前藩)、横井小楠肥後藩)、岩倉具視公家


幕末の三傑編集

 薩長の独自外交と一線を引いて、徳川幕府の外交官としてハリスらと交渉した岩瀬忠震水野忠徳小栗忠順の三名。


幕末の三舟編集

 幕末の徳川幕府において、明治維新の達成に大きな貢献をした、勝海舟高橋泥舟山岡鉄舟の三人の幕臣のこと。


関連項目編集

武将 歴史創作 戦国武将

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