概要
秀吉は秀次の死後、政権安定のために「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を定め、これに署名した6人の有力大名は大老として特別な地位を有し、政権の中枢として働いた。
5ヶ条の御掟とは以下の通りである。
1.大名の間で、私に婚姻関係を結ぶ事を禁じる。
2.大名の間で、同盟関係を結ぶ事を禁じる。
3.喧嘩や口論を禁じる。
4.讒言した者はこれを糾し、成敗すること。
5.乗物などは許された者以外使ってはならない。
秀吉より先に世を去った小早川隆景を除き、5人の有力大名は合議制を以て政権を運営することになり、これが後世「五大老」と見做されるようになった。
豊臣政権下において実務を担当した「五奉行」が秀吉子飼いの譜代大名であるのに対し、「五大老」は宇喜多秀家を除いて秀吉に敵対したことがある外様大名である。
なお、当時の文献において「五大老」という呼称は使われていない。記録の中に見えるのは「5人の者」「御奉行衆」などである。
メンバー
- 徳川家康(天文11年(1543年)~元和2年(1616年))
江戸城主。関東一円に256万石の領地をもつ大大名。正室は(五大老制度が存在していた時期及びそれ以降も)いない(かつての正室・築山殿及び継室・朝日姫は既に他界している)。
秀吉死去の時点の官職は正二位内大臣。
石高・官位ともに家康は頭1つ抜けており、秀吉の死後伏見城代と政務の中枢を担った。
やがて家康は自身の権力の拡大に走り、関ヶ原の戦いでは東軍の総大将として参戦。自らに敵対する石田三成らを一掃し、天下人となった。
- 前田利家(天文7年(1539年)~慶長4年(1599年))
金沢城主。加賀・能登・越中83万石を領する(但し家督自体は嫡男の利長に譲っている)。正室は芳春院(篠原一計の娘)。
官職は従二位権大納言。
秀吉とは織田信長に仕えていたころからの旧知の仲ということもあって秀吉からの信頼が厚く、石高・官職で家康に劣るが、五大老としては同格の地位にあった。利家は豊臣家臣からの人望を集め、家康に唯一対抗できうる人物と見られていた。
秀吉の死後、大坂城代と秀頼の傅役を務めつつ、対立する武断派と文治派の仲裁に動き、家康牽制に動くが間もなく死去、加藤清正や黒田長政、福島正則ら武断派は家康方につき、翌慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにつながっていく。
- 毛利輝元(天文22年(1553年)~寛永2年(1625年))
広島城主。安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐に加え備中・伯耆の西半分の計112万石を領する。正室は清光院(宍戸隆家の娘)。
官職は従三位権中納言。
叔父・吉川元春・小早川隆景兄弟の補佐を受けて領国を治めるが、秀吉死去の時点には両者とも亡くなっている。
後に、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の大将として担ぎ出され大阪城に入城、輝元自身は出陣することはなかったが、敗戦後、長州・周防を除く領地を没収される。
- 宇喜多秀家(元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年))
備前岡山城主。備前・美作・備中半国・播磨三郡の計57万4000石を領する。正室は豪姫(前田利家の娘にして秀吉の養女)。
官職は従三位権中納言。
宇喜多直家の次男で、秀吉の猶子となり、元服のおり「秀」を与えられている。秀吉が亡くなった時点で秀家は26歳であり、五大老の中でも一際若い。宇喜多家の内紛を家康が仲裁したことで、秀家は家康への敵対心を強めたとも言われている。
関ヶ原の戦いで敗れ、戦後、領国を没収、八丈島に流された。
- 上杉景勝(弘治元年(1556年)~元和9年(1623年))
会津若松城主。越後・佐渡、信濃川中島四郡、出羽庄内三郡、米沢の計120万石を領する。正室は菊姫(武田信玄の娘)。
官職は従三位権中納言。
上杉謙信の養子にして甥。
秀吉死去の年に会津へ転封されているが、その目的は蒲生氏郷亡き後の東北地方(特に伊達政宗)と関東地方(特に徳川家)に対する牽制・監視とされる。
秀吉の死後、家康と本格的に敵対し、石田三成と密約を結び挟撃を図ったが、三成が敗戦したことによって領地を没収、新たに家老・直江兼続の旧領・米沢30万石が与えられた。
なお、「御掟」に景勝の署名がないことから「小早川隆景の死後に上杉景勝が大老になった」という通説が長く言われてきたが、実際には「御掟」が豊臣秀次の事件と秀頼の後継者決定を受けて「秀頼の誕生日」に急遽作成された経緯があり、事件を受けて領国である越後国から伏見城へと駆けつけていた景勝の到着がその日に間に合わなかったのだと考えられている(「御掟追加」には署名がある)。
- 小早川隆景(天文2年(1533年)~慶長2年(1597年))
筑前・筑後・肥後1郡で37万石を領する。毛利家重臣にして、前述した通り輝元の叔父にして元就の三男。正室は問田大方(小早川正平の娘)。
官職は従三位中納言。
実質的な毛利家の監督者。文武に優れた能力と人柄ゆえに秀吉からの信頼は厚かった。
「御掟」に署名したが、秀吉より先に世を去っているので一般的には彼を省いて「五大老」とされることが多い。
- 前田利長(永禄5年(1562年)~慶長19年(1614年))
父・利家の死後五大老となる。正室は永姫(織田信長の娘)。
官職は従三位権中納言。
五大老就任後、家康より豊臣家への謀反の疑いをかけられ、さらに家中の意見をまとめきれず、亡父・利家の正室であり母でもある芳春院を人質として差し出す羽目になり、主導権を取れぬまま徳川家に服従することになる。
余談
表向きは五人で協力し合うよう存命時の秀吉が言っていたとされているものの、実際の所は秀吉傘下の家臣の中でも段違いの軍事力を誇った徳川家康を他の大老4人や五奉行も含めた九人全員で牽制する為の制度でしか無かった(所謂「家康包囲網」)とも言われている。
実際、家康を除く五老星の殆どは、家康を敵視・あるいは危険視している者ばかりだったとされ、五奉行もまた浅野長政を除いてやはり家康を危険視していたとされている。
これが事実だとすると、秀吉の死後に家康が御掟を破る形で大名同士の婚姻を結んだのも、いずれ徳川家が豊臣政権から排斥される可能性を考慮したからだとも言え、最終的に五大老の制度が崩壊したのも、「起こるべくして起こった事」なのかもしれない。
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