概要
「海道一の弓取り」と称され、天正年間には東海・甲信五カ国を領する大大名へと成長した徳川家康。
小牧・長久手の戦いにおいては、天下取りに邁進する羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対しても戦術的に勝利を収め、対する秀吉も戦略的な勝ちこそ収め家康を臣従させるに至ったとはいえ、以降は姻戚関係などを通して親族扱いとするなど、真っ向からの対決を避け如何に自らの勢力下に取り込むか、そしてその強大な勢力を如何に御するか、腐心を余儀なくされる格好となった。
そうした中で、天正年間も末期に入ると豊臣政権による小田原征伐を経て、降伏した北条氏(後北条氏)の旧領――即ち関八州へと家康は転封されることとなる。そしてそれに伴い、その周辺地域においても大規模な転封が実施されており、これを秀吉が家康の勢力の封じ込めを図ったものではないかとする見解が、所謂「家康包囲網」説である。
実際に、家康の関八州移封後の旧領である東海・甲信の五カ国には、以下の通り秀吉とも関係の深い大名が複数新たに入封している。
三河
遠江
駿河
- 中村一氏(駿府14万5千石)
甲斐・信濃
(以上は家康の移封直後の慶長18年(1590年)時点のもの)
これらの大名に加え、当時越後を領していた上杉景勝、そして奥州仕置の後に陸奥の会津に配された蒲生氏郷も含めると、秀吉の息のかかった勢力が、家康の関八州を北と東からぐるりと取り囲む格好となる訳である。
(※ この中では水野忠重のみ、旧来の所領を安堵された形となる)
金箔瓦の城
さて、この「家康包囲網」を語る上で、その傍証として挙げられることも多いのが「金箔瓦の城」である。
先端に金箔で装飾を施した瓦は、既に織田信長が健在だった頃から安土城にてその使用例が存在しており、天下人としてその後を継ぐ格好となった秀吉もまた、大坂城にて金箔瓦をふんだんに用いることでその地位を誇示した。
そして豊臣政権下においては、その傘下の大名の中にも金箔瓦を用いる者が複数出てくることとなるのだが・・・こうした金箔瓦を用いた城郭が駿府城など家康の旧領において多く見られ、しかもそれらの築城時期が前述した大名たちが領していた時期と重なるという点を根拠として、秀吉がこれらの大名の居城に金箔瓦を用いさせ、豊臣の権威を示すことで家康の牽制を狙ったという見方も存在する。
ただこの金箔瓦については、近年の全国における発掘作業の進展から東海五カ国に留まらず、家康とは関係のない中国・九州地方といった遠方の地域においても使用例が認められるケースが増えており、そうしたこともあって金箔瓦も秀吉の政治的な狙いがあった訳ではなく、単に当時流行していた様式に過ぎないのではないか、とする反論も呈されている。
さらに前出の駿府城についても発掘の進展から、金箔瓦の様式が秀吉期の「凸部に金箔を貼る」ものではなく、それ以前の信長期に見られた「凹部に金箔を貼る」それであることなどが判明しており、金箔瓦を用いた築城の時期も中村一氏が領していた頃ではなく、それ以前の家康が領していた頃にまで遡る可能性も浮上している。
包囲網の実存性
金箔瓦の城の意味合いに限らず、そもそも家康包囲網の実存性、ひいては家康が関八州に移封となった意味合いについても、再度の検討の余地があるとする見解も少なからず示されている。
そもそも家康の関八州への移封については、その本拠を小田原征伐中に御座所を置くつもりでいた江戸と定めるところから始まり、移封後の関東経営や家臣団の知行割当などに至るまで、秀吉の意向が大きく関与していたと見られる形跡が、同時代の史料・書状の数々などからも垣間見える。
家康の関八州への移封を秀吉による左遷人事、ひいては封じ込め策と見るのも、秀吉薨去後の徳川と豊臣の対立構造に端を発した「結果からの逆算」に過ぎないとの見解も根強く残されており、関八州移封後から秀吉薨去に至るまでの家康に対する処遇の数々から見ても、果たして関八州移封が家康に対する冷遇なのか優遇なのか、今なお明快な結論が出ていないのが実情である。
そして上記した家康包囲網が実存していたと仮定した場合においても、結果的にそれが十全に機能することはなかったと見られる。
包囲網の一翼を担うと見られた蒲生氏郷はしばらく後に早逝、跡を継いだ嫡男の秀行は御家騒動を経て宇都宮へ移され、会津には新たに上杉景勝が移ることとなったが、その後を受けて越後入りした堀秀治は移封に際して上杉氏と深刻な対立を引き起こし、これが原因で家康への接近という事態を招いてしまった。この時点で既に包囲網の一角は崩れたと言ってもいい。
甲斐・信濃についても、豊臣秀勝が早々に美濃へ移った後、前者では加藤光泰が一時的に配されたのを経て浅野長吉(長政)・幸長父子が、後者には仙石秀久や日根野高吉など、こちらもやはり秀吉と関係の深い面々がそれぞれ入封しているものの、一方では浅野父子は家康とも近しい間柄であり、また信濃においても徳川寄りの立場にあった森忠政が、上杉の会津移封に伴い北部の川中島へと入っており、ここでも包囲網に穴が生じた格好となる。
極めつけは家康旧領に配された大名たちの、関ヶ原の戦いにおける去就である。元々秀吉存命中に家康の娘を娶り、家康とも関係を深めていた池田輝政を除く、これらの大名たちの去就が鮮明に打ち出されたとされる「小山評定」については、今なおその有無などについて確定を見ていないことに留意すべき必要がある。が、実際に東軍諸将の上方への反転に際し、山内一豊の掛川城を始めとする東海道筋の諸大名の居城が、徳川譜代の武将に明け渡されたのはその後の事態の推移から見てもほぼ間違いなく、それは即ち(仮に事実であるとすれば)家康への牽制を企図して整えられた城郭網が、その役割を完全に喪失したことを意味するものであった。