概要
天正4年(1576年)、堀秀政の長男として生まれる。また、父親の従兄弟である堀直政は、豊臣秀吉から直江兼続、小早川隆景の二人と共に「天下の三陪臣」と賞賛されていた。
天正18年(1590年)、秀政と共に小田原征伐に参じていたのだが、陣中で秀政が病死してしまう。以降の堀家の家督を継ぐ事になった。
しかし、この時はまだ14歳という若さであった為、それを理由に秀吉から所領の北ノ庄を召し上げられそうになる形で早くも危機的状況に陥ってしまう。しかし、それに激怒した直政の訴えによって召し上げは取り消された。その後、家老として支えてくれた直政の補佐もあり、秀治は当主として何とかやっていく事になる。
文禄元年(1592年)には、文禄の役では肥前名護屋城に参陣するも、朝鮮への出兵は無かった。
文禄2年(1593年)には、伏見城の工事に貢献した。
戦国時代の武将の中でも、堀秀治は現在の所あまり知られていない存在だが、上杉家の名軍師とされている直江兼続が関ヶ原の戦いの最中で石田三成と結託して企てていた一世一代の野望を失敗に終わらせた人物となっている。
会津征伐
慶長3年(1598年)、秀吉は病によって亡くなり、この頃より秀治は徳川家康と親交を持ち始める。
その後、生前の秀吉に言い渡された国替えの遺命によって、秀治は上杉景勝の収めていた越後の領主になるのだが、ここで秀治を始めとする堀家全体にとって最大の危機が訪れる事になる、そして秀治による家康への訴えが、徳川軍による上杉家が治める事になった会津への侵攻のきっかけとなる。
しかし、それに至るまでに越後では様々な問題が起こっていた。
本来、国の領主は国替えをする際に、「備蓄している年貢を半分残しそれを次の領主に引き継がせなければならない」という掟があり、秀治もそれに素直に従っていたのだが、いざ越後の春日山城に入った時、残されているはずの年貢は空になっていた。
これは上杉家の家臣である兼続が意図的に年貢の全てを持ち出してしまったからであり、当然秀治は兼続に対してすぐに年貢の半分を返還するよう要求するのだが、当の兼続には「前の会津の領主である蒲生氏郷が会津の年貢を全て持ち出してしまったから、こちらも年貢を全て持ち出しただけの事。後の事を考えずに全ての年貢を持ち出さなかった秀治の方に落ち度があった」と、完全に居直った態度で要求を悉く無視されてしまう。
結局持ち出された年貢を取り返せなかった秀治は、やむなく検地を行って、減収の埋め合わせをする為に苦慮させられる事になるのだが、兼続の堀家に対する悪意に満ちた嫌がらせはこれで終わらなかった。
当時、百姓は勝手に引越ししてはならないという決まりがあったにも拘らず、兼続はそれを無視して百姓達全てを国替えの際に強引に会津へと連れて行ってしまい、当然越後では米の収入が激減してしまう事になった。また、国替えの際には、必ず家臣達も連れて行かねばならないという決まりもあるのだが、兼続はこれも無視して、弟の大国実頼を通じる形で上杉家の家臣であった浪人達を越後へと置いておき、度々農民達を扇動する形で一揆を起こさせており、秀治の居城である春日山城では、秀治を恨む様になった百姓達が押し寄せて罵声や怒号を放つ事件が、何度も起きている。
更に、米を取り返せなかった秀治は新潟の代官である河村彦左衛門から米を借りるのだが、実は彦左衛門は上杉家の旧家臣で、秀治が米を借りる事を読んでいた兼続は彦左衛門から秀治の借用書を買収。元を正せば自分が米を強引に奪ったにも拘らず、借用所を盾にする形で兼続は堀家をしつこく催促するのだった。
おまけに越後では、上杉家が神格化している上杉謙信の遺骸が放置されたままになっている始末。兼続の悪意によって追い詰められていた秀治は、上杉家が越後を取り戻そうと侵攻してくるかもしれないと考え、上杉に関する情報を集めさせた。
その結果、会津での上杉家が新規の築城を行い、土地を整理し峠を要塞化し、更には前田慶次を始めとする多数の浪人達も雇い入れていた事実を突き止めた。すぐさま秀治は家康にこれまでの事を報告し、上杉が戦争を起こそうとしていると訴え出るに至った。
秀治の訴えを聞いた家康は、秀治に米を返し、築城や土地の整理、浪人達の雇い入れに関する弁明をするべく上洛するよう景勝に訴え出た。しかし、兼続の暗躍を知らない景勝は、それを家康の言いがかりと決め付け上洛を拒否。更に、兼続によってかの有名な直江状が家康に送りつけられた結果、もはや取り付く島もなしとみなした家康は会津への征伐を表明する。
これによって秀治の堀家も会津への侵攻に協力するよう家康から呼びかけられるも、堀家では豊臣への恩顧を理由に上杉家の方につくべきだと主張する者もおり、意見が分かれてしまう。しかし、直政によって「戦いが起これば、勝つのは間違いなく内府(家康)殿の側であり、そもそも堀家が興ったのは、亡き織田信長公のご恩からであるのだから、秀吉公の恩だけを考える必要は無い」と主張された結果、堀家は家康の側につく方針で固まった。
上杉遺民一揆
家康側について会津征伐に乗り出そうとしていた秀治であったが、兼続の仕向けた百姓達によって阻まれてしまい、堀家は越後の各地で一揆勢と戦う事になる。
その間に、大坂城に入場して豊臣家家臣として復帰した三成が挙兵。天下分け目の戦いとされる関ヶ原の戦いが勃発する事になり、秀治率いる堀家が領内の越後で兼続に扇動されている一揆勢との戦いは「上杉遺民一揆」とも呼称される事になる。
一揆勢の激しい勢いに苦戦させられていた秀治もまた、三成率いる西軍につくか、家康率いる東軍につくか迫られるが、直政の提案によって秀治は東軍側についた前田利長の軍へ攻撃を仕掛けようとする構えを見せ、その情報を掴んだ三成は、秀治が西軍側についた事を確信。通達を受けた兼続は、越後で一揆を起こしている農民達に、その旨を伝えて一揆を停止させる。
それを聞いた秀治は、東軍側につくことを表明。越後で活動を停止させていた一揆勢に対し、一気に反撃を仕掛ける事になる。それに気づいた兼続も再び一揆勢に戦わせるよう仕向けるが、既に手遅れで一揆勢は堀家によって殲滅された。
関ヶ原の戦いの終結後、一揆勢との奮闘の功を家康に認められた秀治は所領を安堵される事になる。
その6年後となる慶長11年(1606年)5月、31歳の若さで死去。嫡男の忠俊が堀家を継ぐ事になった。
評価
上記の内容からも分かる通り、本来秀治を始めとする堀家の者達は、石田三成と結託し越後を取り戻そうとしていた直江兼続によって数々の仕打ちを受けた被害者である。しかし困った事に石田三成や直江兼続は、近年漫画や大河ドラマ、ゲームの影響によって、戦国武将達の知識を然程も持っていない者達からは「清廉潔白で正義を重んじる義将」として扱われており、徳川家康、福島正則、加藤清正といった彼等と敵対した武将達の殆どは「私利私欲に走った極悪人」のレッテルを貼られているという判官贔屓な傾向となっている。
堀秀治もまた例外ではなく、「家康に密告する事で上杉家を攻撃させた悪人」、「私利私欲に走る家康に追従する愚鈍な武将」として扱われる事が多い。もっとも秀治の場合は遊興好きで政治にあまり熱心ではなく弟・堀親良の離反を招き、死後に忠俊が改易された「越後福嶋騒動」の原因を蒔いてしまったとされ評判は良くない。このため兼続を退けたのは名将の堀直政・堀直寄父子らがいたおかげであるとさえ言われている。正当で公正的な評価が行われるには、まだ時間が掛かりそうである。