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前田利長

まえだとしなが

前田利長(1562~1614)とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。加賀藩初代藩主。
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概要編集

前田利家の長男であり、加賀前田家二代目。

母は利家の正室・まつ(芳春院)。若年より父とともに織田信長豊臣秀吉旗下の武将として転戦し、徳川家康による江戸幕府成立に至るまでに様々な苦境に立たされながらも家名を守り、加賀藩の礎を築いた。


生涯編集

永禄5年1月12日(1562年2月15日)、前田利家の長男として尾張国荒子城(現・愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は犬千代(父・利家の幼名と同じ)。


当時の前田家は織田信長旗下にあったことから信長の居城・安土城にて仕え、天正9年(1581年)に信長の娘である永姫(当時6歳)を正室に迎える。


しかし翌1582年に信長が本能寺の変にて横死。

織田家の後継者について柴田勝家羽柴秀吉が対立すると、父・利家とともに勝家側に与し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにも参加。戦後、利家は秀吉に従うようになり、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻めることになる。当初、秀吉はまつに「孫四郎(利長)は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長をわずか2騎を供として従軍させた。


勝家自刃後は秀吉傘下の将として各地を転戦して功績を立てた。小田原征伐、九州平定戦などにも参加し、天正16年(1588年)には豊臣姓を下賜された。

慶長3年(1598年)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。


しかし同年9月に秀吉が死去し、続けて翌1599年には父・利家も病没する。

当時、利家は五大老の一角として豊臣政権を支える立場にあり、同時に同じく五大老の徳川家康が増長する動きに警戒しており、利長は父の没後にそれらを一手に担うことになる。


利家の遺言では「3年は上方を離れるな」とあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国。翌9月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告し、家康は加賀征伐を献言。

家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めるも豊臣はこれに応じず、最終的に母・芳春院の意見に従い、芳春院を人質として家康に差し出し、利長の養嗣子(齢の離れた異母弟)・利常と家康の孫(秀忠の娘)・珠姫を婚姻させることで和睦し交戦を回避した。

ただし、この加賀征伐に関しては当時の風聞に過ぎなかったという説も強く、当初は父・利家の遺言に従って家康と連携を取っていたが、石田三成の失脚後に家康が大阪城に入城した事に激怒。断固徳川に抵抗しようとしたのを不安に思った芳春院が、自ら人質になる形で利長を諌めようとしたという説もある。


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後、西軍に与した弟・利政が没収された能登の七尾城22万5,000石・西加賀の小松領12万石・大聖寺領6万3,000石が加領され、計122万5千石を有する日本最大の藩・加賀藩が成立した。また、実妹・豪姫の夫である宇喜多秀家の助命を懇願しこれを実現させた。


以降は利常の成長を見守りながら領地の整備に努めたが、梅毒による腫れ物が悪化したことにより徐々に政務から離れ、慶長19年(1614年)5月20日に高岡城で病死。一説では服毒自殺ともされる。享年53歳。


余談編集

  • 父の義理の甥である前田慶次が出奔した理由は、利家もしくは利長との不仲が原因であったとされる。
  • 一説では、病床の父・利家を見舞いに訪れた家康を、利家が「丁重に饗せ」と暗に家康の暗殺を促した言葉を真正直に受けとめて、本当に手厚く饗して帰してしまい父を呆れさせたという。

関連タグ編集

戦国武将 大名

前田利家 まつ

豪姫 前田利常

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