概要
本能寺の変とは、天正10年6月2日(西暦1582年7月1日)、惟任光秀が京都の本能寺で主君・織田信長に謀反を起こした、日本史上屈指の大事件。
一般に「明智光秀」と呼ばれている人物は、天正3年(西暦1575年)に織田信長から「惟任」の名字を貰って改姓している(これ以降、光秀は「明智」の名乗りを使っていない)。そのため、正しくは惟任光秀が起こした謀反ということになるが、これ以降は一般的に知られている明智光秀の名称で説明を進めることにする。
解説
情勢
戦国時代(安土桃山時代)、近畿・中部を勢力下に置いた織田信長(49歳)は、天下統一に向け邁進していた。
天正10年(西暦1582年)3月に武田勝頼の武田家は滅び、関東の北条氏政、東北の伊達輝宗、九州の大友宗麟などは信長に恭順姿勢を見せ、信長包囲網は切り崩され、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、北陸の上杉景勝、九州の島津義久などが信長と対立していた。
4月、朝廷は信長に関白・征夷大将軍・太政大臣いずれでも就任してよいという、いわゆる「三職推任」を行うが、信長はこれに明確な返答をしなかった。
5月中旬、光秀は安土城を訪問した徳川家康を接待していたが、信長から毛利攻めをしていた羽柴秀吉の援軍を命じられる。5月下旬に愛宕神社を参詣した光秀は連歌会で「時は今 雨が下しる 五月哉」の発句を詠んだ。
一方の信長は29日に森蘭丸をはじめとする小姓などわずかな手勢を連れて京の本能寺へ入り、自らも中国入りするために軍勢の終結を待った。家康は大坂の堺へ、信長の嫡男・織田信忠と信長の義弟・斎藤利治は家康と同行するはずだったが急きょ予定変更して、信長の実弟・織田長益(有楽斎)とともに京の妙覚寺へ入った。
6月1日、信長は貴族達を集め、持参した多くの茶器で茶会を開いた。
発生
6月1日に1万3千の軍勢を率いて丹波亀山城を出た光秀は、中国地方へは向かわず京を目指し、2日未明に桂川で戦闘準備をさせ、「敵は本能寺にあり」と宣言して本能寺へと向かった。(近年の研究によると「敵は~」は江戸期の学者・頼山陽による創作と考えられている)この時すでに明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝らの重臣には計画を知らされていたが、ほとんどの兵は目的を知らなかったという。
2日早朝に明智勢が本能寺を包囲。目を覚ました信長は周りの喧騒を最初は部下たちの喧嘩くらいにしか思ってなかったが、しばらくすると鬨の声を上がり、御殿に鉄砲が撃ち込まれた。
信長は森蘭丸から敵の旗印の家紋が桔梗紋であることを知らされ光秀の謀反を知り、「是非に及ばず」と述べた。(この言葉は概ね「仕方がない」という意味だが、複数の意味にとれるので真意は不明)
信長は弓を持って戦ったが、しばらくすると弦が切れたため槍で応戦するも負傷し、防戦を断念。女中たちに避難を命じると、寺に火を放ち御殿の奥深くに篭り自刃した。
ちなみに本能寺を包囲した時の光秀はフィクション作品での多くが、本能寺の眼前にいたり、境内に入って信長と会うなどの場面が多い。しかし実際には史料によれば、本能寺から遠く離れた伏見で陣を張ってそこから指揮を執り、部隊を本能寺に向かわせたという。
その後の探索で信長の遺体は見つかることはなく一時は生存の噂も囁かれており、後に秀吉はこのデマ情報を逆手にとって、直後に他武将に宛てた手紙で「上様(信長)は存命で、無事近江に逃れている」と光秀側につかないよう工作している。
妙覚寺の信忠は信長救援を諦めて二条御所に移るも、追いつめられて自刃。斎藤利治は御所に火を放ち明智勢を止めたが、同族の斎藤利三に攻められ討死。長益は二条御所を脱出し岐阜へ逃れた。信長の小姓であったアフリカ人の弥助も戦い、本能寺脱出後に明智軍に捕らえられるも解放されその後消息を絶った。
こうして信長の野望は天下統一を目前に志半ばで潰え、信長が最終的に何を目指そうとしたのか、わからずじまいとなった。また、信長と信忠の死は織田政権の没落を暗示していた。
変後
京を制圧し安土城へ入った光秀だったが、関係の深かった細川藤孝や筒井順慶から支持を得られず、また朝廷工作で新政権を作る間もなく、毛利輝元と早々に和睦して中国大返しで戻ってきた秀吉と、6月13日に雌雄を決する事となった(山崎の戦い)。敗れた光秀は同日の夜、逃げ延びる途中で小栗栖にて落ち武者狩りに遭い、百姓らに討たれたとも深手を負って自害に及んだともされる。こうして光秀がなぜ変を起こしたのか、何を目指そうとしたのかもまた謎のままになった。このことは後に「三日天下」(なお、本能寺の変から山崎の戦いまでの期間は11日である)と呼ばれ、権力者が権力を短期間しか保てないことの例えとなった。光秀の首は翌14日には落ち武者狩りをした百姓らから秀吉側のもとに届けられ、信長の場合とは異なり、直ちにその死が確認された。
敗死後、重臣の斎藤利三と共に梟首とされた光秀であるが、他方で美濃中洞まで落ち延び荒深小五郎と名を変え生きながらえたとも、また黒衣の宰相・南光坊天海として家康に仕えたとも伝わるが、いずれの説も現状においては俗説の域を出ていない事に留意されたい。
本能寺の変は、出征中であった織田の各方面軍や、関係の深い武将らにも様々な動揺を与えた。
まず、北陸方面軍を率いて上杉攻めをしていた柴田勝家は、変の翌日に越中魚津城を陥落せしめるも、変の一報に接し佐々成政や前田利家とともに近畿へと撤退。しかしその途上で上杉景勝や上杉方の地侍による反撃を受けて出遅れ、実際に畿内へ戻れた頃には既に光秀が討たれた後だった。
織田の領国となって間もなかった旧武田領・甲信方面では、変の直後より武田の残党による一揆が相次いで発生、甲斐(山梨)では河尻秀隆が一揆勢に討たれ、信濃でも越後攻めに当たっていた森長可らが、国衆の裏切りに遭いながらも辛くも自領へと撤収している。上野(群馬)では変に乗じて北条氏政が織田との同盟を破棄して侵攻。滝川一益を押し返して勢力を拡大するに至っている。
大坂では信長の三男・神戸信孝と丹羽長秀が四国征伐を準備しており、大軍を率いていた信孝・長秀は各武将と比べて京都にも最も近い位置にいた。しかし変の時点で両者とも軍勢とは別行動を取っており、指揮官不在の軍勢は変の報せに動揺し大量の離脱者が発生。結果として信孝・長秀は明智討ちの主導権を握れず、そのまま羽柴勢への合流を余儀なくされた。
堺にいた家康は、見物を終えて京に戻ろうとしたところで茶屋四郎次郎から変の報告を受けた。この時小勢であった事もあり当初は動揺したものの、明智勢から逃れるため服部半蔵の先導で伊賀越えを果たし、4日には三河へ帰還した。その後光秀討伐を掲げ出陣するも、三河を出た時点で既に山崎の合戦は終了しており、家康は変後の混乱で空白状態となった甲信地方の確保へと方針を転換。同じく甲信を狙う上杉・北条との間での抗争(天正壬午の乱)の末、家康は甲斐と信濃の一部を確保し、旧来の領国も含め5カ国を領する大大名へとのし上がった。
信長の正室・濃姫は事件以前から動静が不明で、創作作品では本能寺に立ち会って共に果てた、もしくは生き残ったという筋書きも散見される。有力説では事件時の濃姫は安土城におり、安土城の留守を任されていた蒲生賢秀と息子・賦秀(のちの氏郷)に保護され、後に蒲生氏の本拠である日野城に移ったとも言われる。蒲生父子は光秀からの勧誘を拒んでその後も日野城にて篭城を続け、やがて秀吉に従う事となる。
変の後、秀吉・勝家・長秀、そして池田恒興の四者を中心に清洲会議が開かれ、信忠の息子で当時三歳の三法師(のちの織田秀信)を中心とした新体制と、織田家の領地の再分配が決定され、織田家中での力関係にも大きな変化が生じた。やがて秀吉と勝家を中心として家中は二分され、翌年の賤ヶ岳の戦いを経て勝家を降した秀吉が、織田政権を継承して天下統一へと乗り出していくこととなった。
要因
信長を殺した実行犯が明智光秀であることは明らかであり、今日それが学術的な面から否定されることはまずない。しかし、動機については明らかになっておらず、なぜ光秀は信長を討ったのか。その理由や背景は謎とされ様々な説が唱えられてきた。とはいえ専門家の間では8割方「四国説」が正しいとされている。理由は複数の場合もあるので、四国説が正しいとしてもその他の説が誤りとなるわけではない。
事件に至る原因の前に事件を起こす要因が予てから野望を秘めていた「計画的」か謀反を起こすのにチャンスととらえて起こした「偶発的・突発的」かで意見は分かれている。
四国説
光秀は信長と四国の長宗我部元親との関係を取り持っていたが、信長が四国の武力制圧を指示したために板挟みになってしまったために謀反を起こしたという説。
光秀は、信長と長宗我部との間で板挟み状態であり、信長に追放されることを恐れた。その理由は、かつて信長の重臣・佐久間信盛は怠慢を理由に信長に折檻状を叩きつけられて高野山へと追放されていたからだ。そんな中、信長と信忠が少人数の兵士で宿泊しており、他の織田家重臣は各戦線で戦闘中だったため、リスクが最も低い状態で偶発的に起こした。
これが現在、最も信憑性が高い説とされている。
怨恨説
創作作品でも山岡荘八(とこれを原作にした横山光輝の漫画版も)版「徳川家康」や「織田信長」、さらに「徳川家康」を原作にした1983年の大河ドラマ『徳川家康』などで使われている説。だが光秀がそれだけの理由で、多大なリスクを背負ってまで信長に謀反を起こすということは考えにくいため、学会ではこの主張は否定されている。もちろん私怨がなかったとは断言できない。しかし私怨があったとしてもそれだけで信長を討ったわけではないというのが多くの専門家の見解となっている。「安土城を訪れた家康の供応役で腐った魚を出して信長の勘気に触れて役目を取り上げられた」などという話があるが、これは後世の創作であり事実ではない。
そもそも、光秀は外様であるにもかかわらず信長から厚遇されており、変の前には家臣団に信長に忠誠を誓わせている。また、信長の光秀に対するパワハラのエピソードは後世の創作であり、実際にそのようなことがあったかは不明だ(ただし、信長が家臣にパワハラをしていた資料は存在するため、光秀に対するパワハラがあった可能性は否定できない)。ちなみに、信長が波多野氏の人質となっていた光秀の母親を無視して波多野攻めを命じたとされるエピソードについては、それの資料は信憑性が低く、そもそも光秀は対波多野戦で優勢であったためわざわざ母親を人質に出してまで開城を迫る必要はない。
ただし、光秀本人よりも彼の傘下にある兵士達の一部が信長を激しく恨んでいた可能性が高い。
実は、本能寺の変に参加した兵士の一部は、前述した佐久間信盛の兵士達だった者であり、追放にされた原因は信盛の怠慢にあったが、追放後の信盛は信長を恨んでいた高野山川の人間達から入山を認められず、野垂れ死にも同然の悲惨な最期を迎える事になってしまっている(同じく追放された息子の佐久間信栄に関しては、信盛の死後に帰参を許されている)。
信盛の追放後、残された兵士達は光秀の傘下に納まっているが、かつての自分達の主君であり長年織田家に仕えていた信盛をあっさり切り捨てた信長に対し、道理にそぐわないとは言え激しい恨みを抱いていた者がいたのは想像に難くないと言えるだろう。
時折、「光秀以上に『敵は本能寺にあり』と突如告げられて対応した部下がすごい」とされることもあるが、この様子ではむしろ積極的に参加していたのかもしれない。(ただし、当日参加した兵の日記からは襲撃対象が信長であることを知らなかった様子がうかがえるため、この有名な意思表明は後世の創作である可能性も指摘されている。)
野心説
天下を取りたいという野心から信長を討ったという説。有名な説ではあるが怨恨説と同様に心の中の話なので証明することが難しい。2023年大河ドラマ『どうする家康』で使用されている。
信長の野望阻止説
信長の野望と一口に言っても様々なものがある。
光秀の子孫を称する明智憲三郎は「信長は日本を統一した後で世界征服を狙っていたために、これを阻止しようとした」という説を唱えている。
他にも朝廷存亡の危機・家康討伐・世界征服・明智家滅亡などを防ぐためという説もあるが、これらは話題にのぼること自体が少ないため信憑性は不明。
また、この説から派生した信長の横暴並びに暴挙を止めるための介錯説も存在しており、ゲーム『戦国無双シリーズ』と2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で使用されている。
黒幕説
何者かが裏で光秀を操って信長を討たせたという説も数多い。当時、もしくは後世の流言、噂などの珍説、信憑性の薄い資料や創作作品が元になった人物も含まれている。
信長は天下統一間近だっただけに当時の実力者はほぼすべてが(信憑性の多寡はあるにしろ)容疑者となっており、逆に言えば誰が黒幕であってもおかしくは無いという状況である。信憑性や可能性はともかく、信長を殺したいという動機という点ではすべての有力者にありえる状況だった。
また、黒幕となるには光秀を陰で操るだけの権力が必要となるが、光秀がこれらの人物の言いなりになるかは疑わしい。さらに、信長を討った後の光秀に協力的な人物が少ないという点も黒幕説には不利となる。
信長が討った後の光秀に協力的な人物が少ない理由として、光秀が斎藤利三ら信頼できる側近だけで計画を進め、他勢力の取り込みを始めたのは実際に信長を討った後であったとする推測もある。これは外部の関与が皆無であったという見方であるため、当然黒幕が関与する余地は存在しないことになる。
なお、黒幕説は光秀の動機についての議論の対象とはなっているものの、単純に「信長が死ねばこの人が得する」という理論から考えられたものが多く、具体的にどのような方法で関与したのかなどが語られていないものが多い。上記のように当時の実力者はほぼ全員天下人である信長と何らかの利害関係があるため、この理論から出発するのであればもはや何でもありだとも言える。
そのため黒幕説全てを記述するときりがない為、有名なものだけ記述することにする。
朝廷説
信長が官職を捨てて朝廷の命令を拒否して任官しなかったため、朝廷が信長に朝廷を排する気があるのではと危惧し、光秀に謀反を促したという説がある。
しかし、光秀が変後に味方を集めるための書状にて「朝廷の密命を受けた」という大義名分は一切記述していないため、この説は否定的である。要するに、仮に朝廷の命令を受けていた場合はそれを公にすることで「官軍」と認識してもらえるのだが、それをしていないということは朝廷は黒幕ではないということだ。
しかし光秀は変後に朝廷を味方につけようと奔走しているため、朝廷が黒幕ではないことはほぼ確実である。
そもそも儲宮(次期天皇)とされていた誠仁親王が妙覚寺から逃れてきた信忠に二条御所を引き渡しているのは、朝廷が光秀の計画を事前に知らなかったと証拠であるとも考えられる。
足利義昭説
光秀のかつての主君・足利義昭が(信長によって滅亡した)室町幕府を再興するために、信長の排除を光秀に命令したという説がある。
しかし、朝廷説同様光秀が変後に味方を集めるための書状にて「義昭の命令を受けた」大義名分は一切記述していないため、この説は否定的である。
また当時義昭を庇護していた毛利氏が、変後に秀吉との講和に応じているため、義昭も(毛利氏も)黒幕ではないことはほぼ確実である。
羽柴秀吉説
信長の死をきっかけに天下統一を果たした秀吉が黒幕ではないかという説がある。その根拠として、「中国大返しをはじめとする迅速な行動は事前に変を知っていないと不可能」という主張が使用されることがある。
だが、
- 常識外れに迅速だったのは毛利軍による追撃の恐れがあった姫路城、特に沼城~姫路城間の70㎞を1日で踏破した部分までで、その後肝心の山崎への進軍は常識的な速度である。その上で『1日で70㎞踏破』という部分を全軍に当てはめた場合、事前に準備していたとしてもまず不可能と考えられる。仮に奇想天外な手段で70㎞を全軍で帰還したとしても、秀吉は翌日丸1日姫路城で過ごし、2日後の未明にようやく軍を率いて出立というせっかく無理をして時間を作ったにしては極めて不自然な動きをしている。そのため、現在ではこのペースで姫路城まで帰還したのは初めに帰還した騎馬武者であり、秀吉本人や歩兵はその後翌日までに続々と姫路城へ帰還。その後、ある程度人数が揃ったところで常識的な速度にて山崎に向けて進軍しつつ最後尾の歩兵たちが追い付くのを待ったとする説が、現在の学会では一般的である。
- 上記のように変を知った毛利軍による追撃や宇喜多氏による離反の恐れがあり、わざわざ計画を主導するほどリスクの小さいものではない(現に変を知った敵対勢力により反撃を受け、領地を失った織田方の武将も散見される)
- 変に呼応して秀吉の居城である長浜城もがっつり襲撃されている
- 当時からしても常識外れの転進だったにもかかわらず、後に跡目を巡って秀吉と争った信雄・信孝・柴田・徳川と言った勢力のみならず、使い捨てとして裏切られた形になる光秀本人ですら秀吉が黒幕であることを主張しないのは不自然である。
徳川家康説
信長が、家康の正室・築山殿や長男・松平信康の処刑を命じたことにより家康と信長の間に確執が生まれ、それにより家康が光秀に謀反をそそのかしたという説がある。
だが、近年の研究で築山殿や信康の処刑は、信康が敵対勢力・武田氏と和睦しようとしていたことに反対した家康が二人を積極的に処刑し、信長は義理の息子である信康の処刑を許可しただけということがほぼ明らかになっており、学術的には築山殿事件と本能寺の変は無関係であるという説が有力だ。
しかし別の説では信長が武田氏を滅ぼした後、(対武田の防波堤だった)家康が用済みとなり、彼を排除することで徳川領の直接支配を目論んだという主張がある。だが、信長が武田滅亡後に家康に駿河の支配を許可しているため、信長が家康を用済みと判断したとは考えにくい。そもそも変の直前に家康は信長の臣下同様になっていたため、信長視点ではわざわざ排除する必要はない。
また、家康自身が命からがら領地に逃げ帰っているので家康が黒幕だという可能性は低い。そもそも、家康が堺で観光していた事から光秀率いる軍に命を奪われずに済んだのは、当の信長本人に堺での観光を進められたのが理由である為、猶更無理があると言える。
このように変後のそれぞれの人物の行動を見ていくと黒幕と考えるには無理があるケースが多い。
光秀が他の人物の協力を得た共謀説という説もある。しかし他の説は光秀が信長を討った理由を論点にしている。共謀説は方法についての説のため、そもそも論点が異なる。さらには光秀の謀反の計画を知りながらあえて起させたという説もあるが、学術的検証はほぼ無い。
冤罪説
実は光秀は本能寺の変を起こしておらず、何者かが光秀の名を騙って信長を討ったという説。秀吉や家康が有名である。この説については学術的検証が少なく、フィクション性の強い物語作品で多く使われる説である。
例えば、戦国無双シリーズでは、この二人だったり、こいつとこいつらの三人だったり。白土三平の忍者武芸帳では光秀の影武者が勝手に謀反を起こして、本物は歴史の表舞台から姿を消して、影武者が落ち武者狩りにあって討たれるというもの。
ただし、光秀の謀反の証拠とされる資料の多くは、事件発生から十年以上経過してから書かれたものが多く、また、当時ほぼ唯一その日のことをリアルタイムで日記に書いていた貴族達が、権力者となった秀吉や家康に目を付けられないされないために改竄した可能性も否定できないので、フィクションの中だけのものとは一概に言い切れないのも事実である。
その他の説
- 転戦による過労と将来への悲観による焦慮説。
- 両者の理想の相違から起こった対立説。
- 幕府再興を図った幕臣説。
余談
そもそも明智の軍勢は直接中国方面に行くのではなく、信長の命令で信長本隊と合流するために入京したために、明智勢が京に現れても謀反と気づかなかったという説がある。また、毛利攻めのためではなく、信長からの家康討伐や朝廷制圧という隠された別の命令があったとも言われている。ただし、珍説の類であり、光秀は家康が堺にいることはわかっているはずで、毛利攻めの最中に朝廷制圧という大掛かりな計画をするのも考えにくい。
また当時の兵の手記から、事情を知らない部下達は京都へ向かう理由が家康の討伐のためであると思ったと考えられていたが、近年の研究により誤読の可能性が高く正確には「家康の援軍に行く」という意味だと推察されている。また、誤読説を取らなかったとしても、当時京都とその周辺にいた有力武将は(信長父子と光秀以外には)家康しかおらず、「消去法による推測」とも考えられる。
なお、「織田信長の人生では、同盟者に裏切られたり、家臣に反乱を起こされた事が何度もある」→「織田信長の人生で『良く有った事』の中の1つが、たまたま成功したせいで特別視されているだけ」というミもフタもない意見も有るには有る。
その他
現在でも本能寺は京都に存在するが、これは後に再建されたもので、当時の建物でもなければ当時とは別の場所である。今日イメージされるような防御設備もない無防備だったわけではなく、当時の本能寺は堀や石垣が築かれ、有る程度は籠って戦える軍事施設のような城構えを持っていた。(当時の寺としては普通であった)
信長の最後については結局誰も見ておらず、自分一人で切腹した、介錯つきで切腹した、敦盛を舞いながら火にまかれた、と様々な解釈があるが、創作作品では最期を描かずに部屋に入って物語が終了という事も多い。
異説では寺にあった隠し通路から脱出したとも、懇意にしていた近所の寺の僧侶が遺体を寺に密かに運び埋葬したともある。
「もし、信長が本能寺で死ななかったら」の場合を想像した架空の説や物語は多い。
兵たちには直前まではクーデターであることを知らせなかったため、現代における闇バイトであるとネタにされている。
エグスプロージョンの本能寺の変
エグスプロージョンが2015年3月に発表した「踊る授業シリーズ」の1つがこれである。ただネタとして踊っているだけでなく、きちんと本能寺の変の一部始終の顛末をわかりやすく扱った内容になっている。YouTubeにて2022年7月19日時点で約7416万回再生されている。
しかし、多くの専門家が否定していて信憑性が低いはずの怨恨説を採用している。
関連タグ
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南光坊天海:光秀が山崎の戦い後に生き延び、この人物として第二の人生を歩んだと言われることがあるが、信憑性は低い。
本能寺が変: 変な本能寺
第六天魔王信長: 本能寺の変の黒幕諸説をテーマにした、森蘭丸視点による漫画作品。
信長の野望:第二作の「全国版」からイベント化されている。