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織田秀信

おだひでのぶ

安土桃山時代の武将。織田信長の孫にして織田信忠の長男。生没年1580~1605?
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生涯編集

織田信長の嫡子・織田信忠の長男として1580年に誕生する。幼名は三法師。母は清和源氏の血を引く塩川氏の娘説が有力だが森長可蘭丸の姉妹とも、進藤氏の娘とも言われる。


また正室最有力候補だった松姫(武田信玄の娘)の子という説もあるが可能性は薄い。


父・信忠は正室を持っていなかったため、本来は大伯父・織田信広(信長の庶兄)と同じ、庶長子と呼ばれる存在で、場合によっては織田宗家の家督を継がない可能性も存在した(信忠も長男かつ信長の正室・濃姫の実子ではないが、実子のいない濃姫の養子となり嫡子として扱われていた)。しかし1582年、明智光秀が起こした本能寺の変で祖父:信長と父:信忠が亡くなったため、三法師はその後の清洲会議で織田家当主に就任することになる。


しかし、当時数え年にして3歳(満年齢2歳)であり、実権は守役とされる堀秀政、名代とされた織田信孝、そして織田信雄羽柴秀吉柴田勝家池田恒興丹羽長秀などの織田家一族や重臣、そして織田家同盟者である徳川家康に任せる他なかったのである。


そのため、織田家当主としての権力は脆弱であり、実際に1582年の10月20日には秀吉・恒興・長秀の3者で信雄を代理当主に就任する動きが行われ、家臣の石川数正を通じて事態を把握した家康がそれに賛成するなど既に信雄と信孝の対立に端を発した織田家の主導権争いが表面化していた。

当時、三法師は信孝のいる岐阜城に存在していたが、信孝に反感を持つ信雄や秀吉らの軍事行動により清洲会議の取決めを断行され、安土城二の丸へと移された。


その後、賤ヶ岳の戦いを経て、信孝らが滅び(名目上は)織田家の当主権力を回復しつつあった三法師であったが今度は羽柴秀吉羽柴秀勝(織田信長の四男)らと織田信雄徳川家康らの主導権争いである小牧・長久手の戦いが行われ、三法師は防衛体制の整わない安土城から坂本城へ移された。その後、秀吉が関白職と豊臣姓を賜り豊臣秀吉となると、信長一代で築き上げた織田家の基盤そのものが形骸化し、朝廷公認となる豊臣氏体制が発足され、織田家当主である秀信が、歴史の表舞台に立たないまま織田家が衰退していくことになった。


しかし、権力なくとも権威ありの織田家を流石に見過ごすわけにはいかず、1588年には9歳で元服、朝廷からも従四位侍従の官職に任命され、織田三郎侍従秀信として豊臣政権でも重要な役割を果たしている。(余談であるが、この従四位侍従の官位はその後、従兄弟である織田高長(信雄の五男)に引き継がれ、江戸時代の高長系織田家藩主もそのまま引き継いでいる。)


1592年に豊臣秀勝(秀次の実弟)が朝鮮で病没すると、その遺領の一部である美濃岐阜を引き継いだ。

翌年には朝鮮へも出陣し、帰国後従三位大納言の官位に任命される。以降「岐阜中納言」・「羽柴中納言」と名乗った。従三位中納言の官位は五大老である毛利輝元宇喜多秀家らと同格であり、豊臣政権の中核として、1594年の唐入りに対する和睦の席でも徳川家康前田利家と揃って同席している。

また豊臣秀次とも関係を厚くしていたが、秀次事件には連座せず、またこの頃領内で鵜飼いや寺院の保護も推奨し、祖父・信長の政策を引き継いだ。


1598年に秀吉が死去すると、キリシタン大名としての側面をより強くし、領内でもキリスト教を保護するなどの政策を取っている。

1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成から織田家旧領の美濃・尾張の回復を条件に勧誘されて西軍に属し、東軍の先鋒隊と救援のないまま孤軍奮闘をつづけた。しかし多勢に無勢であり、また前岐阜城主の池田輝政が相手にいたことから、最終的には降伏。戦後、家康からは西軍の主要格と見なされ改易され、高野山に流された。

この際家臣1人1人の感状を書き連ね、それを見た福島正則が感激したという逸話が伝わる。


高野山に配流されるも、祖父・信長が高野山と対立したこともあって終始関係はうまくいかず、やがて1605年に下山したと言われる。

これ以降史料に秀信の名は見えず、高野山で気を病み早くに亡くなったとも(死因も病気で下山した後に直ぐに亡くなった、将来を悲観して自害した、など諸説あり)、高野山を下山した後、地元の豪族に庇護されそこで根付き長生きしたとも言われる。いずれにせよ、織田家嫡流のはずであった彼は時代に翻弄されながら歴史の表舞台から静かに消え、江戸初期に大名に返り咲く事に成功した叔父・信雄の系譜が以降は織田家嫡流と見做されている。


ちなみに子孫を名乗る家もあり、それによれば子孫は秀信の妻の西山性を名乗ったという。


弟に織田秀則(津田忠信)がいるが、彼も歴史の表舞台から徐々にフェードアウトした(兄・秀信の改易後、豊臣秀頼を頼って大坂に移ったが、後に京都に隠遁し、1625年に一浪人として40代半ばで死去したという)。



各メディアにおける織田秀信編集

信長の野望シリーズ編集

戦国群雄伝より初登場。シリーズを追う事にステータスは弱体化し、しかも1595年元服及び1605年没扱い(しかも病死)の為に大名として登場してる期間は約10年間しか無い。(1600年の関ヶ原に至っては約5年しか無いので注意)


シナリオやイベント「本能寺の変」の結果次第で3歳で大名を務める事が多い。


戦国無双編集

武器:刀剣 声:岡本寛志(2) 宮坂俊蔵(特殊セリフ時は神谷浩史)(3Emp)


「織田信長が嫡孫・三法師秀信、参ろうぞ」(3Emp特殊セリフ)


関連項目編集

織田信長 (祖父)

織田信忠 (父)

織田信雄 織田信孝(叔父)

織田長益 (大叔父)

お市   (大叔母)

豊臣秀頼 (はとこ)

織田信秀 (曽祖父)

豊臣秀吉

徳川家康 前田利家

池田恒興 堀秀政

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