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生没年 ?~1574(天正2)年

官位 従五位下大隅守

通称 三郎五郎


尾張の戦国大名である織田信秀の庶長子。庶子(側室の子)であることから家督相続の権限はなく、織田氏庶流の「津田」を姓にしていた。信長の尾張統一戦時に早世した織田信時(秀俊)は史料での記述から信広の同母弟だったと推測されており、10人近くいる信長の異母兄弟達の中で同母兄弟同士であることが判る数少ない事例である。生母については身分が低かったのか何も伝わっていないが、正室(継室)の土田御前より早くに男子の信広を産んでいることや信広・信時兄弟と少なくとも2人以上の子を儲けていることから、それなりに信秀の寵愛する側室だったことは窺われる。


早くから信秀の三河平定戦に従軍しており、1548(天文17)年には安祥城(愛知県安城市)の城主として対今川・松平の最前線を任されることになった。

しかし翌49(天文18)年、今川軍の太原雪斎を大将とする軍勢に攻められ、3月の戦いでは劣勢ながら今川軍を撃退できたが、11月の再戦で敗れ今川軍の捕虜となってしまった。

今川氏の狙いは、3月の戦い直前に死亡した松平広忠の嫡男で、織田氏に捕らわれていた竹千代(後の徳川家康)の奪還であり、今川義元は即座に信広と竹千代の人質交換を申し入れ実現させた。


1552(天文21)年、信秀が死に嫡出子である信長が家督を継ぐと信広も従ったが、三弟の信行が叛乱を起こした際に、信広も美濃の斎藤義龍の支援を得て信長への謀反を画策した。

しかし信長にはすぐに見破られ、信長居城の清洲城奪取に失敗した。信行の叛乱失敗・殺害後に信広も赦免されたようで、その後は織田連枝衆筆頭として一族のまとめ役や将軍・足利義昭や公家衆との折衝にあたるなどの職務に当たった。


1574(天正2)年伊勢長島一揆討伐戦に参戦、一揆衆の最後の捨て身の反撃を迎え撃つも戦死した。生年が不明だが、武将として本格的に活躍し始めた時期から推測して、戦死時は40代前半位の年齢だったのではないかとされる。信広の娘は信長の重臣・丹羽長秀の正室となり嫡男の長重を産んでおり(信広にとっては孫)、ここから子孫が続いている。


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