概要
守護館として
清洲城(清須城)は元々室町時代の尾張守護・斯波武衛家が交通の要所であった清洲(清須)に構えた尾張守護所であり、清洲城守護館という名の通り平城としての体裁が強かった。
戦国時代になり所有者は斯波武衛家→織田大和守家→織田弾正忠家と変遷した。
桶狭間の戦い当時の織田信長の拠点としても有名で信長はここから出陣した。信長と松平元康が「清洲同盟」を結んだのもこの場所。
立地上の問題として、付近の木曽川が氾濫すると城内は水浸しになっていた。また館作りゆえに籠城にも向かなかった。
1563年、信長は美濃斎藤家攻略のために本拠地を小牧山城に移し以降は番城となった。
信長の死後、清洲会議が開かれたことでも知られる。
当時の実態は不明な点が多いが、敷地は広く天守閣は存在していなかった様である。
2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では松平元康(後の徳川家康)の信長に対する恐怖心を象徴するものとして、まるで紫禁城や『キングダム』に登場する秦の王宮のようなスケールで描かれていた。
その証拠に、家康が信長に招かれて安土城に訪れたおりには、信長への恐怖心がやわらいだのか、はるかに広大な安土城がほぼ史実通りの規模に描写されている。
近代城郭への変身~廃城
清洲城下では地震も二回ほど起こっているが、1586年に発生した天正の大地震により当時の城主織田信雄は改築に取り掛かり清洲城は大天守・小天守を備えた近代城郭に変貌した。
しかし、信雄は小田原戦役後、豊臣秀吉からの国替え命令を拒否し秀吉の怒りを買い改易。その後は豊臣秀次や福島正則が城主となった。関ヶ原の戦い後、正則は広島城に移封され、徳川家康は四男・松平忠吉を城主とし清洲藩を立てたが忠吉は早世。忠吉の後任として九男・義利(のちの義直)が甲府から移された。
のち家康は那古屋城跡に名古屋城を築城し、義直は清洲から名古屋に移り名古屋藩(尾張藩)を興した。清洲城は名古屋城築城の資材に使われ、清洲越しと呼ばれる城下町の移動が行われ、今日に至る名古屋の町が完成した。清洲城は大坂冬の陣の前年に当たる慶長18年(1613年)、名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となったが現在も名古屋城にある清洲櫓にその名残を残す。
改築後の清洲城も絵図は残っておらずこちらの実態もはっきりとわかっていない。現在の天守は1989年に再建されたものである。