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武衛

ぶえい

武衛とは、兵衛府の唐名。本記事ではそこから派生した用法、および近衛府の唐名である「羽林」についても取り扱うものとする。
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概要編集

  1. 律令制で定められた官司の一つ・兵衛府(ひょうえふ)の唐名。以下の3つの用例の由来でもある。
  2. 平安末期~鎌倉初期の武将・源頼朝の尊称の一つ。
  3. 斯波氏嫡流で、尾張守護だった尾張斯波氏の通称。
  4. 2.に由来した、2022年のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』に関連するネタ。

1と2の武衛編集

兵衛府とは、天皇やその家族の近侍・護衛を担当する役職の一つで、その成立は飛鳥末期天武天皇の治世にまで遡れる。その後時代が下るに連れて左右への分立、名称の変更や規模の縮小などを経て、後に成立した近衛府・衛門府と併せ「六衛府」と呼ばれるようにもなった。


兵衛府のうち、その長官に当たる左右の「兵衛督(ひょうえのかみ、武衛大将軍とも)」は、特に室町期以降は武士にとって名誉ある官職とされ、主に鎌倉公方や斯波氏の当主といった足利氏の血筋に連なる者が任官するケースが多く見られた。

江戸時代においては明石藩主松平家の当主が左兵衛督、尾張藩徳川家当主が右兵衛督に任官されるのが通例となったが、喜連川藩主を務めていた喜連川家は、男系先祖が小弓公方足利義明で女系先祖が最後の古河公方足利義氏だったことや、足利義晴系の子孫が(公的には)絶えていたこともあって事実上の足利宗家扱いされ、無位無官ながら左兵衛督の名乗りが例外的に許されていた。


また、次官に相当する左右の「兵衛佐(ひょうえのすけ、武衛将軍)」は、平安期より公卿への昇進ルート上の官として見做されており、上流貴族の子弟が多く任じられていた。武士で最初に任ぜられたのは平安後期の平清盛である。父の忠盛が、鳥羽上皇からの覚えがめでたかったという背景があったにせよ、清盛は弱冠12歳にして左兵衛佐に任じられており、この当時の武士としては破格の待遇ぶり(摂関家の子弟と同レベル)は世間を大いに驚かせることとなった。

しかし清盛以上に、この官職に就いた人物として広く知られているのは源頼朝である。頼朝は平治の乱において、父義朝藤原信頼らと共に信西を殺害した後の除目式で右兵衛権佐に叙任されたが、乱に敗れのちに剥奪されたため右兵衛権佐の官位に在ったのはわずか半月しかなかった。後に鎌倉に武家政権を打ち立てた頼朝に対し、坂東の武者たちは頼朝への敬称として「佐殿」「武衛」と呼び慣わした。


3の武衛編集

足利家氏を祖とする足利氏の別流で、足利尾張家とも称される。家氏は陸奥国斯波郡(岩手県盛岡市紫波郡)に所領を持っていたが、斯波を名乗りだしたのは北畠顕家と戦い17歳で戦死した斯波家長足利高経の長男)とされる。

時代は下って3代将軍・足利義満の治世下では、斯波氏も細川京兆家・畠山金吾家と並ぶ室町幕府三管領家の一つとして位置付けられるようになるが、当時の当主である家長の弟・斯波義将(高経の四男)が左兵衛督に任ぜられて以降は、義将の子孫である斯波氏の当主からも複数この職に就いた者が散見されるようになり、やがて斯波氏嫡流が「武衛(武衛家)」と称されるようになった。

現代でこそ斯波氏と呼び慣わされることが一般的であるが、室町期にはもっぱら武衛(家)と呼ばれており、京都の上京勘解由小路に現存する武衛陣町の地名は、この地に武衛家が邸宅(武衛陣)を構えていたことに由来するものである。


このように幕府の枢要な地位、そして足利一門の重鎮という立場を占めていた斯波氏であるが、その後の将軍との対立や、応仁・文明の乱の発端の一つともなった御家騒動を経て、主要な分国である遠江を今川氏に、越前や尾張を朝倉氏や織田氏といった守護代に奪われていくなど、その勢力も次第に衰えていくこととなった。

織田信秀信長を輩出した織田弾正忠家は、この守護代家(織田大和家)の家臣、即ち斯波氏から見れば家臣のそのまた家臣に当たり、永禄年間に信長によって斯波義銀(津川義近)が尾張を追われたことで、尾張守護としての斯波武衛家も滅亡するに至る。義銀やその兄弟たちは、後に信長と和解・臣従した際にみな改姓しているが、義銀はその後も「武衛」と呼ばれていた。

一方、前出の家長の子孫は奥州に土着し、後に高水寺斯波氏を称した。また、戦国時代最上義光を輩出した出羽の最上氏やその本家筋である陸奥の大崎氏は、高経の異母弟・家兼の子孫である。


4の武衛編集

2022年放送のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における、源頼朝に対する通称・・・なのかもしれない。

なぜこのような歯切れの悪い表現になるのかと言えば、作中でのこの語句の出てきた経緯、それに使われ方が些か特殊であるためである。以下にこの語句の初出である第8回「いざ、鎌倉」での経緯を掻い摘んで記すものとする。


石橋山で手痛い敗北を喫しながらも、奇跡的とも言うべき再起を果たした頼朝は、坂東の諸勢力をその傘下に加えながら鎌倉へと軍を進めつつあった。

が、その軍勢の間では「佐殿(頼朝)が最近調子に乗っている」と、隙間風が吹きつつある状態であり、上総広常に至っては頼朝の再起に大きく影響を及ぼしたにも拘らず、その待遇や頼朝の姿勢に不満を隠そうともしない有様であった。

この状況を見かねた北条義時は、三浦義村と相談の上で頼朝と坂東武者らとの酒宴の場を設け、両者の間に横たわるわだかまりを解こうとするのだが・・・ここで義村は広常に対し、「相手に親しさを示す」言葉であるとの説明を添えつつ、頼朝のことを「武衛」と呼ぶと良いと提案する。


「義村殿、武衛とは・・・」

「流石に知っていたか。まぁ見ていろ」


そばでこのやり取りを聞いていた畠山重忠がすぐに勘付いた通り、「武衛=相手に親しさを示す呼び名」という義村の説明は全くの出任せである。頼朝を「佐殿」と呼ぶことすら渋っていた広常にしてみれば、むしろそれよりも畏まった呼び名となる訳なのだが、そのことを知る由もない広常は頼朝が酒宴の場に出てきたことにすっかり機嫌を直したらしく、義村に教えられた通り頼朝を武衛と呼び、対する頼朝も広常からの予想外に畏まった呼びかけに気を良くしていた。そう、ここまでは良かったのだが・・・


「おぅ、お前も武衛! 俺も武衛だ! 武衛同士飲もう!」


義村からの説明を鵜呑みにしてか、広常は頼朝だけでなく周囲の面々にまでも(恐らくは仲間や同士程度の感覚で)「武衛」と呼びかけており、これには頼朝も軽い当惑を禁じ得なかったのであった。

その後も広常は頼朝のことを「武衛」と、その最期の時まで親しみを込めて呼び続けていた訳だが、その真に意味するところを彼が理解していたのかどうかは、今となっては誰一人知る由もない。


ともあれ、前述した広常の「勘違い」ぶりにおかしみ、ユーモアを覚えたファンも相当数いたようで、そこから転じて「クラスタ」などと同様の感覚で、自称他称を問わず同作のファンを「武衛」と呼ぶケースも散見され、ついには公式ツイッターも「武衛の皆さま」と呼びかけるようになった。


羽林編集

近衛府の唐名。近衛府は「六衛府」の中でも兵衛府よりさらに上位の役職で、天皇の最側近での警護を担うが、一方で鎌倉期には既に名誉職ともなっていた。


前出の『鎌倉殿』においては、その官職に任ぜられた源実朝(頼朝の三男)に対する呼び名として度々用いられている。

元々物語も後半に至り、頼朝の三男・源実朝いろいろあって三代目の鎌倉殿に就任し、その実朝が和田義盛とも親しくなると、広常の死によって長らく鳴りを潜めていた将軍に対する武衛呼びも、作中で再び聞かれるようになっていた。

後に実朝は右近衛中将に任ぜられており、そのことを知らなかった義盛に対し、


「武衛とは兵衛府のことで、親しみを込めて呼ぶものではない。それに今は羽林だ」


と説明。これを受けて義盛からの呼び名も武衛から「羽林」に変わったという経緯がある。

この「羽林」は視聴者により、実朝ならびに演者である柿澤勇人への呼び名にもなっていたが、現在では柿澤本人公認のあだ名の一つになり「うりん」「ウリン」の表記揺れバージョンもある。


備考編集

  • 『鎌倉殿』終了後も、大河ドラマに絡んで「武衛」「羽林」が話題に挙がるケースも度々散見される。
    • 翌年放送の『どうする家康』に広常役の佐藤浩市が出演することが発表された際にも、やはり「武衛」の呼び名がSNS上で飛び交う格好となったが、これも含めて本来作中で武衛と「呼ぶ方」であった広常のことを指して、「武衛」と呼ぶファンも一部で散見されるなど、さらなる用法の変転ぶりも確認されている。
    • 2024年放送の『光る君へ』では、主要人物の一人である藤原道長が元服後に侍従を経て右兵衛権佐に任官されており、やはりここでも『鎌倉殿』を思い起こされたファンからの「武衛」「佐殿」呼びが少なからず観測されている。
  • 実朝役の柿澤勇人と義盛役の横田栄司は、後に三谷幸喜作の舞台『オデッサ』でも共演しているが、同作の稽古現場で両者が再会した折に、横田が発した第一声が「羽林」であったことを、公演後のアフタートークイベントにて柿澤が言及している。

関連タグ編集

鎌倉殿の13人

源頼朝 上総広常

どうする家康 光る君へ


信長 KING OF ZIPANGU:1992年放送のNHK大河ドラマ。『鎌倉殿』で義村を演じた山本耕史の大河初出演作であり、奇しくも同作での役柄は「武衛家」の当主・斯波義銀であった

逃げ上手の若君松井優征の漫画作品の一つ。登場人物の一人として、高水寺斯波氏の祖となった斯波家長(孫二郎)が登場する

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