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建保6年(1218年)、有力御家人・三浦義村の弟・胤義が大番役として京に赴任、その直前、義村は弟に密かに「上皇(後鳥羽上皇)様に近づく」ことを命じる。


承久元年(1219年)7月、京で大内裏を守護する源頼政の孫・頼茂が三寅(後の鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経)の鎌倉下向に不満を抱き、朝廷に謀反を起こす事件が起きる。

そのさなかにあって頼茂は大内裏に籠って抗戦、仁重殿に火をかけて自刃、天皇家に伝わる多くの宝物をこの戦乱で失った後鳥羽上皇はショックのあまり1か月以上も床に臥したという。


事件後、後鳥羽上皇は鎌倉幕府が断ることを見越して内裏の再建費用を徴収するよう命令、

朝廷からの命令を知った慈円僧正は策謀を知らされなかっただけでなく、鎌倉幕府と戦うことの無謀さに反対するが、上皇の乳母・藤原兼子や上皇の近臣・藤原秀康は慈円の意見に対立、後鳥羽上皇からも遠ざけられてしまう。


鎌倉幕府の実権を握る執権北条義時は鎌倉のあちこちで起きる火災対策に苦労し、朝廷からの命令にも苦慮するが、三寅の後見人を勤める尼将軍・北条政子と謀臣・大江広元の賛同を得て朝廷からの命令をできるだけ先送りすることを決める。


策謀通りとなったことで、後鳥羽上皇は「北条義時追討」の院宣を各地の武士たちに送ると兵を挙げ、たちどころに幕府から派遣された京都守護・伊賀光季(北条義時の継室・のえ(伊賀の方)の兄)を討ち取る。

一方、上皇からの院宣は鎌倉を支える有力御家人・三浦義村、北条一族の有力者・北条時房をはじめとする8人にも届けられ、鎌倉は上皇に従うべきか、戦うべきかで騒然とする。


兄・伊勢光季が討たれたことを知ったのえと、光季・のえ兄妹の祖父・二階堂行政は、光季の死が義時の策謀によるものではないかと疑い、義時をただそうとしたが、光季の死に狼狽していた義時は、のえの子である五男(席次としては四男)・政村の家督相続について話そうとしているのではないかと思い無視、弟・時房、長男・泰時らと対策の協議に乗り出したが、このことがのえの義時に対する強い怒りと深い恨みへとなっていった。


このとき、戦を避け、鎌倉を灰にしないことを考えた義時は政子と実衣に会うと穏やかな表情で


「元はと言えば、伊豆の片田舎の小さな豪族の次男坊。」

「その名を上皇様が口にされるとは。」

「それどころかこの私を討伐するため、兵を差し向けようとなされる。」

平相国清盛源九郎判官義経征夷大将軍源頼朝と並んだのです。北条四郎(時政)の小倅が。おもしろき人生でございました。」


と、別れを告げ、京に出頭することを御家人たちに告げるため退出するのだった。

義時の決意を聞いた実衣が

「かっこよすぎるのよ」と憮然とした表情でこぼすと、

政子も

「このままではすまさないわ」

と、つづけ、大江広元に演説の草案を急ぎ書かせるのだった。


そして、尼将軍・北条政子の一世一代の演説が始まる。


第47回「ある朝敵、ある演説」では鎌倉幕府に殉じる決意を固めた北条義時の姿と、第48回「報いの時」では最愛の息子・北条泰時のためあえて悪をなそうとした北条義時の生に執着する姿が描かれる。


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