概要
権力への野心もなく、家族と穏やかな暮らしを続けていた義時は、姉・政子が平治の乱で敗れた源義朝の三男・頼朝と結ばれたことにより父・時政や兄・宗時、さらに三浦義澄・三浦義村親子に岡崎義実・和田義盛らの三浦党や土肥実平らも頼朝に加勢し平家打倒の兵を挙げる。しかし、石橋山の戦いで大敗し宗時や工藤茂光らを失い頼朝は安房に逃れるも上総広常・千葉常胤らの房総平氏を味方に付け巻き返した。その後、秩父平氏の畠山重忠に鎌倉党の梶原景時など平家方だった有力武将も降り、頼朝の異母弟・源範頼・阿野全成・源義経も馳せ参じた。そして佐竹義政・大庭景親・伊東祐親ら平家方の武将たちを次々滅ぼし、富士川の戦いでは平維盛率いる平家軍を破った。
義時は頼朝の義弟でありかつ政務能力もあったため挙兵当時からに頼朝の側近として仕えた。頼朝と謀臣・大江広元の立案した上総広常謀殺に一時は反対するも消極的に関与、権力中枢にも深くかかわっていく。
だが、権力中枢に関わるうちに理想だけでは割り切れないものがあるということを嫌というほど知らされていくうちに徐々に義時は「大義のためなら手段を選ばない」非情な性格を持つようになり、着ている着物の色も段々と暗い色に。
このように「闇堕ち」していく彼の内面と、徐々に着ているものがダークになっていることを合わせ、「ブラック義時」というワードが誕生したのである。
変貌していく義時
若草色時代
初登場の頃の姿。蔵の中で米粒を数えるのが好きな、伊豆の純朴な次男坊の姿。
- 第5回「兄との約束」
石橋山の戦いで敗れた宗時は頼朝の命を受けて観音像を取りに平家方の軍勢が占拠する伊豆へともぐりこむも善児に斃され二度と帰ってくることはなかった。
出発直前、宗時は弟・義時に「源氏とか平家とかどうでもいいんだ。坂東武者の世を作り、そのてっぺんに北条が立つ」と、頼朝の力を利用した天下取りの野望を告げ、田舎の青年を権力欲の権化に変えていく原動力となった。
- 第15回「足固めの儀式」
鎌倉を治める頼朝に対する不満が坂東武者の間で広がる。
事態を察知した頼朝は謀臣・大江広元と語らい、無実の上総広常を謀反の総大将に仕立て上げたうえで見せしめとして誅殺する計画を義時に伝える。
義時は涙ながらに反対し、謀略を正当化するため親友・義村に何とか止められないか相談するが、
義村は冷たく「おまえ、だんだん頼朝に似てきたぞ」と言われて返すこともできず、広常も御家人たちが見守るなか景時に斬殺されてしまった。
深緑色時代
広常誅殺という惨劇を経て徐々に頼朝のやり方を身につけ始めた頃。八重さんという心の拠り所や、仕える頼朝という主君がいたためか、後年に比べればまだ闇はそれほど深くない。
- 第17回「助命と宿命」
義経から木曽義仲を討ち果たしたとの知らせが鎌倉に届く。
一方、甲斐源氏惣領・武田信義とその嫡男・一条忠頼は義仲の遺児・源義高を甲斐に迎えて反頼朝の兵を挙げることを画策、しかし、それらの策謀は頼朝に漏れたため、義高は討たれ、忠頼も頼朝に招かれたうえで仁田忠常に討ち取られて武田家に対する警告と信義は義時に告げられる。
- 第20回「帰ってきた義経」
奥州藤原氏に身を寄せた義経を藤原泰衡に討たせ、それを口実として奥州藤原氏を討つための工作を命じられた義時は、景時から善児を従者として借りたうえで「義経を討たねば、鎌倉と戦になりますぞ」と恫喝、思惑どおり泰衡に義経を討たせることに成功する。
- 第21回「仏の眼差し」
奥州征伐後、長男・金剛(後の北条泰時)を生み義時の精神面を支えてきた八重さんが川遊びで溺れかけた孤児・鶴丸を救おうとして水死する。
- 第23回「狩りと獲物」
頼朝の身代わりとして寝所で休んでいた有力御家人・工藤祐経が曽我兄弟に討たれる。
曽我兄弟の狙いが祖父・伊東祐親と父・河津祐泰の真の仇である頼朝を討つのみならず頼朝の治政に不満をもった岡崎義実らも関与したクーデターであることと、父・時政が事件に関与していないことを知った義時は、頼朝とまちがって工藤祐経を討った事件を(祐経と因縁がある)曽我兄弟による仇討ちにすり替え、末代まで語り継ぐ美談へと変えてしまった。
事件後、比企一族の娘・比奈を第2の妻に迎える。
- 第27回『鎌倉殿と十三人」
初代鎌倉殿・源頼朝の死から半年、幕政は二代目鎌倉殿・源頼家の政治能力の未熟さもあって頼家の祖父・北条時政と、頼家の愛妾・せつの父・比企能員の対立が深まりつつあった。
このことを憂えた義時と景時は、大江広元ら五人の文官と景時が裁判を担当し、頼家から裁可を得る方策を思いつくが、対立する時政と能員の介入により十三人に膨らんでしまった。
暗緑色時代
頼朝亡き後、十三人の一人に選ばれたこともあって、「鎌倉を守るため」という目的のため手段を選ばなくなる。この頃から目のハイライトが死ぬ。また、運慶曰く「まだこの頃は迷いがあって、そこに救いがあった」。
- 第31回「諦めの悪い男」
梶原景時が三浦義村・結城朝光・和田義盛らに糾弾され失脚。景時は善児を義時に託し自身は後鳥羽上皇の招きに応じ上京を目指すが、駿河において義時が差し向けた兵と戦い討死した。頼家に対する謀反の罪で阿野全成が八田知家に処刑された後、頼家が意識不明の重病に倒れる。頼家の後継をめぐる時政と能員の対立は収まらず、全成の三男・阿野頼全が処刑されたことで夫と息子を失った実衣を始め北条家の怒りは頂点に達し時政は比企一族を滅ぼすことを決意する。
自邸に招いた能員を討った後、北条軍は比企邸を襲うが、このとき義時は長男・泰時に頼家の長男・一幡とその生母である能員の娘・せつを「災いの種になる」として絶対に殺すよう命じる。
- 第32回「災いの種」
比企一族滅亡後、頼家が奇跡的に目を覚まし、「一幡やせつに会いたい」と時政、義時らに伝える。
朝廷には「源頼家死去」を報告しており、比企一族ももう亡いことから時政・義時親子ら北条一族、大江広元も気まずい表情のまま顔を見合わせる。
困惑する義時に、泰時は「(一幡様は)生きておいでです。不幸中の幸いじゃないですか」と善児の隠れ家に匿っていることを報告、が、義時は「一幡様は亡くなっておられる」と無視し、善児とトウに一幡の殺害を命じる。
比企一族の滅亡後、自身から身を引く形で義時は2番目の妻・比奈を離縁、男手で次男・朝時、三男・重時を育てはじめる。
- 第33回「修善寺」
愛妾・せつに長男・一幡を始め比企一族を北条一族に殺害された頼家は幽閉された修善寺から北条氏追討の命令書を各地の御家人に送りつづけるが、だれも北条氏打倒に動こうとはせず仁田忠常は頼家と北条氏との板挟みになり自死を選ぶ。
孫を殺すことにためらいつつもこれらの動きを時政は無視をすることはできなかった。頼家が後鳥羽上皇と結ぼうとする動きを見せたこともあり広元は鎌倉のため頼家を討つことを主張。義時は善児とトウを刺客に派遣する。
刺客の来襲を予期していた頼家は善児とトウを迎え撃つが善児共々深手を負い、最後は二人ともトウにとどめを刺された。
- 第34回「理想の結婚」
頼朝の次男・源実朝が時政・義時親子をはじめとする北条一族に擁立され三代目鎌倉殿に就任。
時政らは朝廷と交渉して実朝の正室を迎えることを決定、後鳥羽上皇の従妹にあたる千世(権大納言・坊門信清の娘)を鎌倉に迎える。
一方、義時は十三人の宿老の一人・二階堂行政の孫娘・のえを第3の妻に迎える。
- 第35回「苦い盃」
京で時政・りく夫妻の子であり、政子・義時・実衣・時房の異母弟である政範が変死する。
義時はりくの娘婿・平賀朝雅が朝廷の命を受けて毒殺したと考えたが、りくは畠山重忠の嫡男・重保が殺害したと考え逆上、時政に畠山一族を討つことを迫った。
- 第36回「武士の鑑」
畠山重保が時政の策略で三浦・和田の兵に討たれ、重忠はわずか百余騎を率い挙兵。義時を大将とする幕府軍2万が畠山軍を包囲したが畠山軍は逃亡せずに戦い重忠は愛甲季隆の矢を受け討死した。
少数の兵で幕府軍と戦った重忠の謀反の嫌疑は晴れ、義時は幕政の実権を握った父・時政に重忠の首を見るよう迫り、拒まれたことで父を見限る。
- 第38回「時を継ぐ者」
自邸に実朝を監禁し、鎌倉殿の座を平賀朝雅に譲ることを強要する時政。
時政邸を囲む義時や八田知家らはいつ踏みこむかを考えるが、成功の目算が立たないことを悟った時政は実朝を和田義盛に託して解放、身柄を幕府軍に拘束された。
事件を起こした時政とりくの死罪を義時は覚悟したが、政子・実朝親子の嘆願と文官たちの裁定により罪一等を減じられて出家、伊豆に追放となった。
その一方で、時政をそそのかし畠山父子を破滅に追いやったりくを許すことが出来なかったためトウが刺客に送られ(義村に邪魔され失敗)、政範を殺害した平賀朝雅には追討軍が送られ、朝雅は殺害された。
事件後、義時は幕府の実権を握り、黒ずくめの直垂を身につけるようになった。
漆黒時代
究極形態。迷いがなくなり、運慶曰く「つまらない男」となってしまった小四郎。すっかり「怒りの日」が似合う男に...
- 第39回「穏やかな一日」
執権・北条時政による謀反の終結後、義時は長男・泰時に仕える従者・鶴丸を「平盛綱」と名づけたうえで実朝に御家人に取り立てるよう要求する。
実朝は幕政運営上問題があるとして拒否したが、義時は「それならば、私は伊豆に引退する」と恫喝、実朝の反対を押し切った。
- 第40回「罠と罠」・第41回「義盛、おまえに罪はない」
坂東武者最後の生き残りとなった侍所別当・和田義盛。
飾らない人柄からくる厚い人望と鎌倉髄一の武力は侮れず、鎌倉殿である実朝とのつながりは政所別当を勤める義時の脅威となった。
義時と義盛が対決することを望まない実朝は何とか両者を和解させようとするが、鎌倉政庁に勤めるものが誰も知らない謎の御家人・泉親衡が和田一族を扇動、叛乱寸前に追い込まれてしまう。
この一件では義盛が義時に頭を下げて四男・義直と五男・義重は不問に付されるが、甥・胤長は縄目の辱めを受けたうえで陸奥へ流され屋敷を没収され、和田一族と関係のない御家人に与えられてしまった。さらに胤長の娘も病死し不穏な空気が流れるなか義盛の三男・朝比奈義秀らが暴発、鎌倉を戦場として幕府軍は和田一族を追いつめ、実朝を陣頭に立たせる。
幕府軍と和田一族がにらみ合うなか、実朝は「義盛、おまえに罪はない」と語りかけるが、その瞬間、義盛は義時の罠にはまって全身に矢を射かけられ怒りの咆哮をあげながら絶命、義秀・義直・義重ら和田一族も討死してしまった。
- 第44回「審判の日」・第45回「八幡宮の日」
実朝は和田合戦以降、義時に不信感を抱き朝廷への傾斜を深め頼るようになる。一方、義時もまた実朝の姿勢に不快感を抱き始め大船建造の件でさらに溝が深まる。その後、実朝は位階も官位も昇進し母・政子は喜ぶが、義時は政子に対しても不快感を抱く。
一方、亡き頼家の次男・公暁の乳母父である三浦義村は父が北条時政・義時親子に討たれた経緯を公暁に教え、公暁に実朝と義時に対する憎悪を殺意に変えさせ、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日に謀反を起こすことを計画する。
義村と公暁に謀反の計画があることに気づいた義時は義村に会い、義村のウソをつくときの癖から計画が真実であることを悟る。
自身に世継ぎができないことを悟った実朝は朝廷から後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を次期鎌倉殿に迎え、京に幕府政庁を遷す構想を義時に伝える。
これに対し義時は実朝が父・頼朝がなぜ鎌倉に武士の都を作ったか、朝廷からの干渉を拒んでいたかということをまるで理解していなかったことに対し怒り絶望する。そして義時は、あえて公暁に実朝を討たせたのち、公暁を討ち果たし源氏を滅ぼすことを決意する。
義村もまた義時に感づかれていることに気づき計画を中止するが、公暁は義時に黙認されているとも知らずに人違いで源仲章を討ったうえで実朝を殺害、口封じとして義村に殺害されてしまった。
事件後、義時の長男・泰時は、父親が公暁に主君を殺させたことを悟り、父親に対する対抗姿勢を見せるようなった。
このとき義時は穏やかな目で息子を見、「面白い、よかろう、受けて立つ」と嬉しそうにつぶやき、次期鎌倉殿として迎える予定であった後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を朝廷の方から断らせ、操りやすい人物を朝廷から呼び寄せる方策を泰時に問うている。
大倉観音堂に仏師・運慶を訪ねた義時は、自身に似せた仏像を作るよう依頼、北条ではなく自身が武士の頂点に立つこと、神に近い存在に立つ野望を口にした。
一方で義時はのえや政子に対してもきつく当たるようになり、特にのえについて八重や比奈を引き合いに出して嫌みを言ったりするなど不穏な夫婦と化している。
(ただし、のえに限っていえば源仲章にいいように利用され喋らなくていいことを喋るし、義時の懸念に「妬いてらっしゃるのですか?」と勘違いも甚だしい反応をするなど正直義時にとっては頭を抱えたくなるような所業も目立っているのも原因にあると思われる)
- 第46回「将軍になった女」
実朝の死後、実子の阿野時元を次の鎌倉殿に担ぎ上げようと暗躍する実妹・実衣の行動を察知し、三浦義村を使ってこれを事前に察知し挙兵した時元を自害に追い込む。また、その挙兵に関与したとして実の妹である実衣の死罪を言い出す(当時の刑罰として、女性は「耳鼻を削がれたうえで流罪」が最も思い刑であり、死罪は適用されないことが常識であった)。これには時房、泰時も身内ゆえ考え直すように再三懇願するも「それでは政は回らぬ!」「おかしいのはお前たちだ」と断言し、実衣の処刑を断固として進める。
また対朝廷政策では、あくまで朝廷側が親王下向の取りやめを言い出すことに固執し、朝廷からの挑発行為に苛立ち時房に命じて1000人の兵力を上洛させるなど強硬策を実施。泰時からも「父上は何かに取り憑かれているようだ」と評されている。
しかし、この回では自分の意見に異を唱える泰時に対し「お前の声は耳障りだ」と政所を追い出しておきながらもしつこく実子・政村を後継にと推す妻・のえに対し「嫡男は太郎(泰時)だ」と断言したり、政子が都から下向してきた三寅が元服するまでの後見役として「尼将軍」となることを決意した際にも、「私がいるので政は問題ありません」と言っておきながらも大して就任には反対していない(ただし政子に「私に対する抑止ですか?」と言った直後に、「全て自分中心に物事が回っているなど思わないで」と特大の釘を刺されて黙り込むなど、思うところはあった様子)など、単に暴走しているだけとも言い切れないような描写も見られ…?
漆黒の、その果て
元はと言えば、伊豆の片田舎の小さな豪族の次男坊。
その名を上皇様が口にされるとは。
それどころかこの私を討伐するため、兵を差し向けようとなされる。
平相国清盛、源九郎判官義経、征夷大将軍・源頼朝と並んだのです。北条四郎(時政)の小倅が。
面白き人生でございました。
(第47回より)
- 第47回「ある朝敵、ある演説」
実衣が出家し、改めて政子の補佐役「尼副将軍」となったのを見届けた義時だったが、強硬に実衣の斬首を主張したことは本人から恨まれているようで「私を殺そうとしたでしょ?」と問い詰められるも、「言ってない」としらばっくれ「我が愛しい妹、実衣」と手を握って逃げるようにその場を離れた(なお、直後に時房に「(斬首だって)言ってましたよ」と暴露された)。その一方で大内裏の焼失に伴う朝廷からの税の徴収命令と、それを頑なに無視する義時の対立によりより一層御家人たちの心は離れていき、それにつけこまれる形で有力御家人へ義時征討の院宣が下る。
辛くも(※)義時征討の院宣を事前に知ることのできた義時たち。息子の泰時は「こうなっては一戦交えるのみ」と息巻くが、鎌倉を第一に考える義時にとって自分一人のために鎌倉を戦火に巻き込むことは耐え難いことであり、泰時にあとを託し、時房と朝時に彼のことを任せると単身都へ上ること決意する。そして、政子と実衣に対し今生の別れを告げに行き「おもしろき人生でした」と微笑んだ...。
※この際院宣を真っ先に義時に見せた三浦義村は、院宣を受けとった瞬間は北条に対し蜂起する気になっており大番役として京に赴任した弟・胤義にも後鳥羽院に取り入るよう命じていたが、北条時房など三浦以外の有力御家人にも院宣が出されており、しかも最初に自分に手渡されたわけではなかったことから後鳥羽院側についても三浦が重用される未来はないと見切りをつけたことで、一番に院宣の現物を見せただけであり別に義時に同情したり彼との友情で動いたわけではない。つまりいつも通りの義村である。その点では後鳥羽院側のちょっとしたミスによるガチの幸運と言えるかもしれない
...だが、政子が義時一人を犠牲にすることを許すわけがなく、彼女は義時が御家人たちに別れを告げようとした会合に突然姿を現すと、「義時は生真面目すぎてやりすぎたことはあるかもしれない。でも、私心で動いたことはない。それに鎌倉のために命を差し出す覚悟がある」と姉として弟・義時のことをフォローする一方で、「朝廷は『義時一人差し出せば戦はしないでやろう』とか言ってきた。我々のこと舐めくさっているぞ!」(超意訳)と御家人たちを奮い立たせ、これに泰時が「尼将軍をお守りし、執権殿の下鎌倉のために戦おう!」と発破をかけたことで御家人たちは一致団結。これを聞いた義時は途中からその場から背を向け、たまらず涙を流していた。
この政子の演説と御家人たちの団結のシーンは、ある意味で志半ばで倒れた義時の兄・宗時が義時に語った『坂東武者だけの国を作って、そして北条がそのてっぺんに立つ』という宿願が成就した瞬間であり、目的のために手段を選ばなくなった義時が目指したものとも言えるため、彼が報われたと捉える視聴者もいる。
そして…。
- 最終回「報いの時」
この最終回タイトルである。
余談
メインビジュアルでは漆黒の着物が一番表に出ているが、何気に若草と深緑の時代が一番長かったりする。
若草時代:第1回~第15回 計15回
深緑時代:第16回~第31回 計16回
暗緑時代:第32回~第38回 計6回
漆黒時代:第39(38)回~最終回 計9(10)回
(暗緑は時代の流れが早すぎるのである。カメラが切り替わったら数年経ってた、なんてこともしばしば。)
関連タグ
鎌倉殿の13人 北条義時 最も頼りになる者が、最も恐ろしい ここからは、修羅の道だ
- アナキン・スカイウォーカー:新三部作各作品における衣装の変遷(白→茶のインナーに黒→全身黒)が、自身の内面の変化と重なっているという点が共通。
- 明智光秀(「麒麟がくる」):義時同様に物語の経過&昇進と共に着物の色がだんだんと濃くなっていった大河ドラマ主人公。彼のまた理想実現のため、最後は手段を選ばなくなった。
- 織田信長(「麒麟がくる」「秀吉」「功名が辻」):光秀の主君。麒麟で染谷将太(のえ役の菊地凛子の夫)が演じた信長は、権力を得るに連れ孤独になって行った点が義時に近い。秀吉で渡哲也、功名で舘ひろしが演じた信長は(実朝死後の義時のごとく)自らを頂点とし神たらんとする点に関しては他大河の信長と比較しても特に強く、渡の信長は最後に「神が死ぬか!」の名台詞を吐く。また、義時役の小栗旬はドラマ版「信長協奏曲」で信長を演じている。
- 大久保利通(「翔ぶが如く」「西郷どん」):権力を得るに従って独裁傾向が強まり、かつての親友や同じ鹿児島の後輩などを討つことになる点が似ている。冷徹な面も似ている。
- 徳川家康(「どうする家康」):戦乱の中でかけがえのないものをいくつも失い、最終的に平和な世の為に修羅の道を進む決意を固める。しかし義時とは逆に、晩年には真っ白な衣装になった。