義高「小四郎殿、私はやはりあなたを信じることができません。
御台所から遠ざけた上で私を殺す気ではないのですか。
鎌倉は恐ろしい所です。私はふるさとの信濃で生きることにします。」
概要
「鎌倉は恐ろしい所です」とは、第17回「助命と宿命」において、源頼朝から命を狙われることになった源義高が北条義時へと宛てた手紙の中で書いた一文。この少し後に、工藤祐経が義時に同様のことをしみじみと語るシーンがある(後述)。
なお、台詞自体は第17回に起きた粛清と追討の連鎖によるものだが、引き金は第15回「足固めの儀式」で上総広常が粛清されたことで引かれており、視聴者にも共通する思いとなっている。
『鎌倉殿の13人』中盤以降の作風を端的に示している台詞であり、同時に視聴者の心からの声でもある。
粛清と追討の犠牲者
第15回「足固めの儀式」(4月17日)
第16話「伝説の幕開け」(4月24日)
- 木曾義仲…いち早く上洛し平家を京の都から追い払うも朝廷との関係がすぐに悪化、朝廷の実権を握る後白河法皇は頼朝に「義仲追討」を命じる。義仲は鎌倉から派遣された軍勢と戦うが源義経の軍略に翻弄され最後は源範頼の軍に討ち取られる。
第17回「助命と宿命」(5月1日)
- 源義高・一条忠頼…前者は義仲の嫡男、後者は武田信義の嫡男。父を殺された義高が甲斐源氏と結んで叛乱を起こすことを恐れた頼朝は御家人に義高の殺害を命令。しかし、妻の北条政子と娘の大姫の怒りを買い、大姫の決死の助命嘆願を受けたことにより頼朝はやむを得ず義高殺害の命令を撤回するが……。忠頼は父とともに義高を奉じて反乱を起こす企てが頼朝に漏れており、見せしめとして酒宴の席で仁田忠常に殺害されてしまう。
- 藤内光澄…頼朝からの殺害命令の撤回を知らずに義高を討ち取ってしまい、意気揚々と頼朝の元を訪れ、義高の首を届ける。が、それらの行動は鎌倉殿御台所の政子の逆鱗に触れることとなり、光澄はわけもわからぬまま処刑されてしまう(なお、政子自身は「決して許さない」とは言ったものの直接的に「殺せ」とは言っておらず、光澄が処刑されたことを知らされた際には狼狽していた)。
たび重なるこれらの粛清と追討の連鎖に恐れをなした工藤祐経は、光澄が処刑された直後に義時に会うと、
「怖い所だ、この鎌倉は。私が生きていくところではない」と伝え、
義時は祐経に
「ようやく分かりましたか。
他に行く所があるのなら、一刻も早く出ていくことをお勧めします。
私にはここしかない」
と伝える。そして祐経は一旦鎌倉を離れたが静御前が鎌倉に送られた頃には舞い戻っていた。のち頼朝の信任を得て権勢を奮い増長した祐経だが、彼もまた「富士の巻狩り」で非業の死を遂げることになる。
第38回「時を継ぐ者」(10月2日)
平家滅亡後、上記の祐経以外にも義経・藤原泰衡・曽我兄弟・範頼・景時・阿野全成・阿野頼全・比企能員・一幡・せつ(若狭局)・仁田忠常・源頼家・善児・畠山重保・畠山重忠・稲毛重成らの登場人物が次々非業の死を遂げていき、「しぬどんどん」などという恐ろしいあだ名までついた「鎌倉殿の13人」。
ついに38回では義時の父・時政が三代目鎌倉殿源実朝に対する謀反の罪で出家のうえ伊豆に追放(この際、義時は時政が死罪になってもやむなしと覚悟していたが、これまでの功績と政子や実朝からの助命嘆願、文官たちの裁可によって罪一等が減じられた。)。父の跡を継ぎ二代執権に就任した義時はまず手始めに、「畠山重忠の乱」の原因となった御家人平賀朝雅の誅殺を在京の御家人に下知する。
義時にとって朝雅は「自らの異母弟・政範を毒殺した主犯」であり「旧知の間柄であり、坂東武者の鏡だった畠山重忠の嫡子重保に毒殺の嫌疑をなすりつけ、畠山父子を討たざるを得なくした」うえに、「重保に罪を着せるため時政の妻・りくに嘘を吹き込み暴走させ」、さらにその延長で「りくの暴走に乗ることを決意した時政が最終的に鎌倉を去ることになってしまった」という34~38話における一連の悲惨な事件の数々の諸悪の根源でもあった。加えて、りくの策では実朝を鎌倉殿から引き摺り下ろした後には朝雅が四代目鎌倉殿となる手筈だった。(ただし、これ自体には我が身可愛さゆえに朝雅は乗り気ではなかった。)
すぐさま在京武士たちは朝雅を包囲。朝雅は「待ってくれ!私は鎌倉殿になりかわろうと思ったことなど一度たりともない...!」と見苦しく命乞いをするも当然聞き入れられることはなく、あっけなく誅殺されてしまった。
朝廷と鎌倉のパイプ役であり、後鳥羽上皇とも近く、何より義時自身とも義兄弟である朝雅(朝雅の妻は義時の異母妹)を朝廷の許しもなくあっさりと誅殺した鎌倉の所業に恐怖した上皇の側近・中原親能は朝雅の妻・きくの下に急行し、すぐさま身を隠すよう忠告し、
「鎌倉は恐ろしい...もう、たくさんだ!」
と嘆くのであった。
ちなみにこの親能、ご存知の通り大江広元の実兄であり、元十三人の評定衆の1人で幕府に属していた頃には文官として政権運営を担っていた人物である。いうまでもなく、先述の15~17回の頃は「恐ろしい所」鎌倉の中核を担っていた側の人物である。
そんな元身内にすら「恐ろしい」と言われるようになってしまった鎌倉、そして鎌倉を守らんとする義時の未来やいかに...
なお、この一件で鎌倉の脅威をまざまざと実感した人物がもう1人。
「北条義時...調子に乗りおって...許さぬ」