概要
源頼朝挙兵に加わり、平氏追討では源範頼に従い、畿内から九州までを転々として戦っていた。
1180(治承4年)の石橋山の戦いでは一族とともに従軍し、一時は退却を余儀なくされたが、後に大庭景親を降伏させている。
頼家からの信頼も厚く、頼朝の死後は源頼家に仕えた。頼家の長男・一幡の養育係にも任ぜられたという。
建仁2年(1202年)には忠常の屋敷で小笠懸が催されている。建仁3年(1203年)、頼家に命じられて富士山麓の人穴を探索した。この年の7月に頼家が病に倒れ、数カ月間昏睡状態に陥るさなか、9月には北条時政に従って、頼家の外戚となって北条家を凌ぐ力をつけていた比企能員を騙して時政邸に呼び込み、これを討ち取っている。
忠常の最期は、書物によって大きく異なるが、いずれも悲惨な最期であったことは間違いない。
まず『吾妻鏡』によれば、頼家の意識が回復したのち、和田義盛とともに北条家追討の命を下された。翌日の晩、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟の五郎と六郎が時政討伐の命を頼家から受けていたことが露見したと考え、北条義時が訪ねていた北条政子の邸宅を襲撃するが、五郎はその場で討たれ、六郎は自害する。時政邸を出て家路を辿っていた忠常は、弁明のため御所に向かおうとしたが、加藤景廉に討ち取られてしまったという。
一方『愚管抄』には、病に倒れた頼家が8月30日に自ら出家し、一幡に家督を譲ると宣言したことを忠常は知らなかったために能員を討った。そのことを知らされ、翌月5日には義時と争い、敗北して討たれたという。