概要
初代・神武天皇から第84代・順徳天皇までの歴史を、貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、末法思想と「道理」(正しく、筋道の通ったものごと。そこから転じて慣習や道徳をいう)の理念とに基づいて、仮名文で述べたものである。
当時は識字率が現在より遥かに低く、あまり漢字を読む能力を持っていないという人は珍しくなかったのである。そこで、仮名文字表記によって読みやすいように記したのであった。
成立年は朝廷と鎌倉幕府の関係に緊張が高まった承久2年(1220年)頃であるが、承久の乱終結後も見直しがなされて一部が修正されている。
巻1から巻2までは神武以来の天皇年代記、巻3から巻6までは道理の推移を中心とする歴史述叙、そして巻7は道理についての総括となっている。
作者は天台座主にして九条兼実の弟の慈円僧正である。慈円は朝庭に仕える人物であるものの、源頼朝の政治運営は「道理にかなう」としてこれを高く評価している。
その一方で慈円の父である藤原忠通がその父親(慈円から見て祖父)・藤原忠実と不仲であった事を暗に批判したり、同母兄弟である九条家流を持ち上げて異母兄弟である近衛家流を「道理にかなわない」と非難するなど、決して実家の摂関家を持ち上げているわけではなく、あくまでも「道理」にのっとって中立的な立場で歴史の事実を評価している。
これは源氏将軍3代の政治体系を批判し、北条氏による執権政治を持ち上げる立場で歴史を記している「吾妻鑑」とは対照的である。
元々この史書は、慈円が討幕の意志を固めた後鳥羽上皇を諫め、挙兵を思いとどまらせるために執筆したものである。
慈円本人は公武協調政策を臨んでおり、兄の孫・九条道家の子である頼経が鎌倉に下向することに期待を寄せていた。
鎌倉幕府にしても、3代将軍・源実朝の急死をもって源氏の系統が断絶し、将軍不在となって政治的なピンチを迎えていたため、頼経の下向ならびに鎌倉殿就任というのは願ってもないことであった。
そうした慈円の願いも虚しく、朝幕関係の悪化は承久の乱という、慈円にとっては最悪の結末にまで行き着いてしまったが、乱の後には、兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥にあたる)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。
前述したように、「愚管抄」は「末法思想史観」とも言うべき秀逸な歴史書であったが、京都の九条家につながる人々にのみ読まれる書物で、多くの人の目に触れることはなかった。
「愚管抄」が時を経て再び注目されるようになったのは、江戸時代の後半になって、学者の江戸時代以前の歴史への関心が高まってからであるが、本当に慈円の著書であるかどうか、疑問を抱く見解も根強かった。結局、著者が慈円であることが確定したのは1920年と、大正時代になってからのことである。