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九条頼経

くじょうよりつね

九条頼経とは、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。京より迎えられた初の摂家将軍であり、この事から藤原頼経と呼ばれる事もある。(1218年-1256年)
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概要

生没年 建保6年(1218年)1月16日~建長8年(1256年)8月11日
 摂関家の一つ・九条家の当主で関東申次(鎌倉幕府と朝廷との交渉をつかさどる役職)でもあった九条道家の三男として生を受ける。寅年の寅月、そして寅の刻に生まれた事から、幼名を「三寅(みとら)」という。子に九条頼嗣(鎌倉幕府5代将軍)がいる。

 両親ともに坊門姫(源頼朝の同母妹)を介して源氏の血筋を引いていた事から、3代将軍・源実朝の横死に伴いその後継者として鎌倉へ迎えられ、鎌倉幕府初となる摂家将軍となった。しかしその実情は、執権として幕府内で強い実力を有する北条氏の傀儡に過ぎず、前3代の源氏将軍とは異なり実権を持たぬ存在に甘んじる事となる。
 こうした扱いに対する不満から、長ずるにつれて親政を強く志向するようになった頼経であるが、その動きを北条得宗家に警戒された結果、将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされ、遂には宮騒動を機に京都へ送還されるという憂き目に遭った。

 お飾りの幼君であるが故に政治的には目立った功績は殆どないとはいえ、名越流北条氏を始めとする反執権勢力の糾合や、関東申次という立場から朝幕双方に権力を行使する実父・道家らの存在を背景に、その在職期間の末期には幕府内での権力基盤を強め、また将軍職解任後も幼年の頼嗣を後見するという名目で幕府内に隠然たる影響力を示すなど、北条得宗家としては極めて侮りがたい存在として見られていた。

生涯

摂家将軍

 三寅の誕生から丁度1年が過ぎたばかりの建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が暗殺された事は、幕府そして朝廷にも大きな衝撃を与えた。この時点で実朝には後継ぎがおらず、源氏嫡流による将軍家はここに断絶を迎える事となったのである。
 この事態を受け、幕府は前々から要請していた皇族将軍擁立の動きを活発化させる事となる。元々この動きは実朝の生前、彼が病弱がちであった事から朝廷に打診されていたものであったが、その背景には文人肌で朝廷や公家との融和策を推進していた実朝に対する御家人達の不満、そして執権政治の維持のため源氏に代わってより都合の良い存在を将軍として擁立したい北条氏の思惑などが絡んでいた。
 こうした皇族将軍擁立の打診に対し、時の朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇は国を二分するものとして難色を示し、将軍不在の時期が続くこととなった。その後も幕府は軍事力を背景に朝廷に圧力をかけるも色よい返事は帰って来ず、幕府と朝廷が折衝を重ねて妥協した結果、わずか2歳の三寅を新将軍として鎌倉に下向させることとなったのである。幼い三寅の後見には北条政子源頼朝の正室)が務め、元服までの間事実上の「鎌倉殿」として将軍職を代行する格好となった。

 前述の通り源氏の血を引いているとはいえ、源氏ではなく藤原家(摂家)出身の将軍は前代未聞の事であり、幕府内では源氏への改姓も検討されたが、結果的には藤原氏のままとされている。これは摂家出身という立場を利用して、朝幕関係の円滑化を図るためという意味合いもあった一方、北条氏としては後見役の影響力を行使しやすい幼年期を過ぎた後、京へ送り返す際に九条家の一門であった方が都合がいいという事情もあった。
 このように、幕府の長たる将軍とはいっても頼経に期待されていたのは、初めからあくまで北条氏の傀儡という役割に過ぎなかった。嘉禄元年(1225年)に後見役の北条政子が他界したのに伴い元服、そして翌年に将軍宣下を受けて正式に4代将軍となった頼経であるが、元服の同年に時の執権・北条泰時の主導で実施された幕府の移転も、将軍の立場の形骸化を一層推し進める格好となるなど、正式な将軍就任後もこうした立場は全く変わる事がなかったのである。

親政志向と宮騒動

 このように名目上の将軍という立場に甘んじていた頼経であったが、長ずるに及んで官位を重ねていくにつれ、次第に親政を強く志向するようになっていく。そんな頼経の周辺には北条氏の中でも嫡流から外れていた有力庶家・名越流や、三浦氏や千葉氏など北条氏と競合する有力御家人が接近し、反得宗・反執権勢力とも言うべき派閥が構築されていくようになる。この当時、前述した九条道家による幕政への介入もまた、こうした反得宗派にとっての追い風となっていた。
 無論、この状況を北条得宗家もただ座視していた訳ではなかった。泰時の後を継いだ4代執権・北条経時は反得宗派の解体を図るべく、寛元2年(1244年)に頼経を強引に将軍職から退かせ、その後継として頼経の嫡男・九条頼嗣を据えるという手段に打って出たのである。しかし頼経は将軍職から退かされた後も、幼い新将軍の後見として引き続き鎌倉に留まり続け、幕府内にて勢力を保有し続けた。

 このように頼経を中心とした反得宗派と、北条得宗家との対立が燻り続ける中、寛元4年(1246年)閏4月、執権・経時が23歳で死去。新しい執権として経時の弟・北条時頼が既に内定していたが、この機に乗じて反得宗派の急先鋒であった名越光時が、時頼排斥と得宗家打倒を企図して軍事行動に及ぼうと行動を開始する。しかしこの企ては機先を制した時頼によって頓挫に追い込まれ、首謀者である光時が所領を没収され伊豆に配流され、その他頼経側近の御家人も罰せられる結果となった(宮騒動)。
 当然、反得宗派の中心にあった頼経自身も無事では済まなかった。既に経時存命の頃より京への送還が度々俎上に挙がっていたが、この事件を機に新執権・時頼は頼経の鎌倉追放・京都送還を断行。また関東申次として権勢を振るっていた父・道家も同職を罷免されるなど、ここに頼経の政治生命は完全に断たれる事となる。

 頼経はこの後も京で復権に動き続け、鎌倉でも頼経の鎌倉帰還を求めた三浦一族と、北条得宗家との間で内乱が勃発する(宝治合戦)が、建長4年(1252年)には前年に発覚した幕府転覆計画への関与を理由として、宗尊親王と入れ替わる形で嫡男・頼嗣もまた将軍職を罷免され京へ送還される。
 摂家将軍はここにわずか2代で途絶え、それから4年後の建長8年(1256年)、頼経は赤痢に罹患し失意のうちに39年の人生に幕を下ろした。翌月には頼嗣も同じく赤痢によって他界しており、その4年前の父・道家の死と併せて短期間での九条家3代の相次ぐ死には、何者かの介在、関与があったのではないかと見る向きも存在する。

伝説

鹿島神宮の白馬祭は、頼経が関東に下向したときに神託で悪来王を退治したので、鹿島神宮の神前で禁中(宮中)で行われていた白馬節絵会を執り行ったのが起源という。
この話は1233年の文書に記録されており、『吾妻鏡』に田村麻呂利仁が悪路王と赤頭を退治したと記された時期より古いことから悪路王伝説を紐解くものとして注目されている。

その他

2001年放送のNHK大河ドラマ北条時宗』では、宇梶剛士が頼経を演じた。第1話の時点で既に将軍職を退いており、第4話で時宗元服が鎌倉にて盛大に行われる中、京にて将軍職を追われた息子共々時頼が送った刺客暗殺されるという形で、物語より退場している。

関連タグ

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