陸奥国の伝承に現れる悪路王、赤頭、高丸を指して奥州三鬼ともされる。
かなり誤解されているが、アテルイは悪路王ではない。詳細は下記「アテルイとの同一視」を参照。
概要
悪路王の名前は岩手県の南西、平泉にある達谷西光寺の縁起(達谷窟毘沙門堂および姫待瀧伝説)に登場する。東北地方で栄華を極めた時代の平泉で大将軍(坂上田村麿公)の本地を毘沙門天とする田村信仰が発祥、ここから悪路王伝説が東北各地へと発信された。
達谷西光寺の周辺は陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼良の本拠地に近く、奥州藤原氏の全盛期には平泉の西門に位置した。平泉は京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていった歴史的背景から、酒呑童子伝説など京都の物語にも影響されつつ、鎌倉時代末期に平泉独自の物語として酒呑童子伝説に比肩する「悪路王伝説」が独自に創作されていく。
また平泉は鹿島信仰の北限とされ、悪路王が住むとされた達谷窟については常陸国鹿島との交流による「鹿島合戦」の影響も検討できる。
来歴
達谷窟毘沙門堂
奥州合戦で藤原泰衡を討伐した源頼朝が鎌倉へと帰る途中、田谷窟の付近を通ったときに捕虜から「田村麻呂利仁等の将軍が夷を征する時、賊主悪路王並びに赤頭等が塞を構えた岩屋である」と教わった。また「坂上将軍がこの窟の前に九間四面の精舎を建立して、鞍馬寺を模して多聞天の像を安置し、西光寺と号した」という。
上記は鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条の記述である。原文では「是田村麿利仁等将軍。奉綸命征夷之時。賊主悪路王并赤頭等搆塞之岩屋也。」とあり、田村麻呂と利仁が続けて書かれている。歴史上の人物であるはずの2人が、架空の人物である坂上田村丸利仁へと融合していくことに影響した。
また、この記述については塞を構えた岩屋としか書かれておらず、悪路王を討伐したとは一言も書かれていない。鬼退治譚と解釈しても田村麻呂と利仁の2人が悪路王と赤頭等を討伐したのである。ここで坂上田村麻呂と藤原利仁とセットで書かれていることに意味がある。
さらに坂上将軍が鞍馬寺を模して達谷窟毘沙門堂を建立したとしているが、田村麻呂は鞍馬寺の縁起には一切登場しない。一方で利仁は鞍馬寺の毘沙門天の加護で下野国で1000人もの群盗を討伐したため、毘沙門天像と剣を鞍馬寺に納めたと『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。
京都から平泉に『鞍馬蓋寺縁起』が持ち込まれたことで、悪路王伝説と結び付ける着想を得たのだろう。
一般的に広く知られている悪路王伝説は、坂上田村麻呂に討伐されたというものだろう。
しかし御伽草子や奥浄瑠璃で鞍馬山の毘沙門天の加護を得て悪路王を討伐するのは藤原利仁(ふじわら の としひと)をモデルとした田村丸の父・藤原俊仁(ふじわら の としひと)である。
中世文学の成立過程をひとつずつ分解していけば、悪路王は藤原利仁に討伐されたというべきである。詳細は下記「物語の中の悪路王」を参照。
姫待瀧伝説
悪路王は京から攫ってきた中納言の姫君を窟の上流の籠姫に閉じ込め、近くの桜野でしばしば花見を楽しんだ。姫は逃げ出そうとしたが、姫待瀧で待ち伏せれて捕らえられ、二度と逃げ出せぬよう黒髪を切られ、見せしめにその髪を掛けた石が髢石という。
姫待瀧伝説にも京都から平泉に持ち込まれた酒呑童子伝説が移入されていく。
考察
名前の由来
定説ではないが『鳴子町史』では、延暦8年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせて衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされて、結果的にアテルイに破られ、数千人の戦死者をだして惨敗した。このことは『日本後記』に示されているが、そこには当時の道が如何に「悪路」だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由ともなったのではとしている。
鹿島信仰
『続日本紀』延暦7年(788年)3月3日の条に「桓武天皇が東海道、東山道、坂東の諸国に対して弓馬に優れたもの、特に先の戦いで武勲のあった者と常陸国神饌を優先して選び、翌年3月までに歩兵と騎兵を5万2千800余人集め、多賀城に集結させるよう勅命した」と記されている。
常陸国神饌とは茨城県鹿島市にある鹿島神宮に仕えた人々で、『日本三代実録』貞観8年正月20日の条から、常陸国神饌が東北地方を進軍しながら多賀城へと向かう道中、多賀城までの各地に38社もの鹿島神宮の末社を勧進しつつ向かっていたことがわかる。こうして東北地方の鹿島信仰は蝦夷征討とともに広まった。
鹿島合戦
鹿島神宮について『常陸国誌』に「鹿島合戦」という物語が残る。その内容は、大宝元年正月7日に羅刹国の光宋王が9万8千50もの鬼共を引き連れて出発し、日本に上陸して人々を取り喰らったが、日本の神々が鹿島に結集して、鹿島大明神を大将に鬼共を退治したというもの。注目すべきはその末尾が「これより奥州達谷が岩屋に石の牢をつくり、その中に押し込め石の戸を立て、猶も覚束なしとて百八体の毘沙門を立給ふ」と締めくくられている点である。「鹿島合戦」では鬼を退治して達谷窟に毘沙門天を祀ったのは鹿島大明神であり、平泉の悪路王伝説とは異なるものである。
桓武朝による第一次蝦夷征討とともに鹿島信仰が北上川流域へと広がり、古来より「まつろわぬ民は窟に住む」とされてきた概念が鹿島信仰の北限である平泉まで持ち込まれたことから、奥州達谷窟には鬼が住むという共通認識に落ち着いたものと考えられる。このように悪路王が達谷窟に住むとされたのは鹿島信仰による影響が大きい。
悪路王の首級
鹿島神宮には田村麻呂が征伐した首級を、寛文4年(1664年)に藤原満清が木造で復元奉献したという「悪路王の首像・首桶」が遺されている。神宮ではこの悪路王をアテルイを指すとしている。もうひとつ、茨城県城里町高久の鹿島神社にも田村麻呂が下野達谷窟で討った悪路王(アテルイ)の首級を納めたという「悪路王面形彫刻」が遺されている。両神社ともに「鹿島合戦」という下地があり、そこに平泉で創出された悪路王伝説が鹿島信仰を通して逆輸入されたことで、「鹿島合戦」を上書きする形で取り入れられた。
共通点としては悪路王=アテルイ説を用いた説明書きがされているのだが、中世東北地方でも悪路王とアテルイが同一視された形跡はなく、同一視されるようになったのは江戸時代以降であることから、説明書きは比較的近世のものとなる。
ひとつだけ苦言を呈するなら、新左翼に影響を受けた陰謀史観から「勝者が描いた歴史である」などとして、悪路王の首級が俗説に政治的利用されているのが見受けられる。しかし伝説がいつ創出され、どのように伝播してきたのかを検証することで、伝説の裏にある隠された歴史の真実などとやらが真っ赤な嘘であることが理解いただけるだろう。わずかに残された一次史料を積み重ねて、学術的に純粋に歴史上の人物としてのアテルイを研究している歴史学者がいることを頭の片隅にでも置いてほしいものである。
余談になるが『鹿島神宮文書』では悪来王を退治したのは征夷大将軍・藤原頼経と記されている。伝説とは、その主人公でさえ時代の流れとともに創出と改編が繰り返されていることが理解できる。
赤頭との位置関係
「アカカシラ → アカシラ → アカラ」と略せば「アクロ」に通じるとの説から、悪路王と赤頭を同一の存在と見る向きがある。
しかし『吾妻鏡』では悪路王と赤頭は明確に別人物として登場している。
高丸との位置関係
こちらも「大高丸 → 悪事の高丸 → 悪路王と通じることから本来はひとつの対象を指した」という説である。
高丸の名前は、宝治3年(1249年)成立の『諏訪信重解状』「当社五月会御射山濫觴事」に見られる。これは『吾妻鏡』の成立時期より約50年前の文献だが、諏訪信仰が平泉に持ち込まれていたのであれば高丸から悪路王に転じたとする部分は成立する。しかし本来はひとつの対象を指したとするには疑問点がいまだに多いのも現実である。
鈴鹿山の大嶽丸との位置関係
室町時代初期に成立した能『田村』では田村麻呂と清水寺の創建縁起が演じられるが、その中に登場するのが鈴鹿山の鬼神である。『田村』は室町時代末期にお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』のベースとなり、稲瀬五郎坂上俊宗が鈴鹿の鬼神・大だけ丸(大嶽丸)を討つ。ここで名前が登場した。悪路王・赤頭・高丸が奥州(東北)を背景に成立した鬼であるならば、大嶽丸は平安京(京都)を背景に成立した鬼といえる。
さらに江戸時代の東北地方では仙台藩を中心に『鈴鹿の草子(田村の草子)』をベースにして奥浄瑠璃『田村三代記』が成立した。『田村三代記』では登場する寺社や地名などが東北地方に合わせて変更されるなど、地域密着型の物語へと変貌し、大嶽丸が降り立つ地も鈴鹿山から霧山禅定や達谷窟などに変更されている。東北各地の神社や仏閣に田村麻呂が創建したなどの縁起が多いのは、『田村三代記』が上演された神社や仏閣の縁起として上書きされていったのが理由のひとつである。
伊達政宗以来、昭和初期まで上演された奥浄瑠璃『田村三代記』は田村語りの最高傑作であり、江戸時代の東北地方の文化や芸術がいかに優れたものだったかを証明する。陰謀史観に惑わされず、東北地方の優れた文化こそ誇りにしてほしいものである。
岩手山の大武丸との位置関係
岩手山の大武丸は、南部信直・利直親子が盛岡へと本拠地を移した慶長4年(1599年)以降に、南部氏の手によって創出された伝説であり、南部氏が盛岡城へと入る以前の岩手山の伝説に大武丸は登場していない。伝説の裏にある隠された歴史の真実とやらはない。
アテルイとの同一視
その賛否
史実におけるアテルイの人物像については当該項目を参照してほしいが、アテルイの名前は、古代日本の律令国家が編纂した正史である六国史のうち『続日本紀』と『日本紀略』の中でもわずか4箇所にしか登場しない。アテルイについて判明している直接的な歴史的事実はそれだけである。
一方で1980年代の東北地方からアテルイ復権運動が起こると、それと同時に坂上田村麻呂伝説のなかに現れる悪路王にアテルイ伝説の探索あるいは創出を求める試みも活発化した。いつ頃からか古代東北でもアテルイの名前は忘れ去られ、伝説が史実であるかのように語り継がれてきたことから、江戸時代ごろより悪路王をアテルイと目する論説があった。朝廷による蝦夷征討が悪路王伝説のモチーフのひとつであることに疑いようはないものの、だからといって安易に悪路王とアテルイを同一視する傾向に対しては否定的な見解も多い。
史実との混同
悪路王について最古の記録とされる『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した正史ではなく、編年体で書かれた将軍年代記、つまりは歴史書である。頼朝が見聞きした内容をそのまま史実として考えることは出来ず、平安時代初期から鎌倉時代までの約400年間に古代東北でアテルイと田村麻呂の事績が反映されて伝説化し、平泉で悪路王伝説が創出されていた事を示す参考資料程度に捉えるべきである。
アテルイ復権運動と悪路王
上記のようにアテルイと悪路王は「史実と、その史実と同時期を対象にした伝説」という関係でしかない。アテルイと悪路王の同一視または史実との混同がされてきた背景には、アテルイ復権運動による郷土愛的な側面が指摘される。
仙台藩士・佐藤信要は寛保元年(1741年)の『封内名跡志』で、東北地方には田村麻呂建立とする寺社が多いことについて「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と記している。
相原友直も仙台藩の風土を記した『平泉雑記』で、田村将軍建立堂社について「悉く信用が不足している」と述べている。
高橋崇氏はアテルイと悪路王の同一視について、アテルイ復権運動による郷土愛的な側面を指摘して「史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」としている。
『えみし風聞』の著書である宮野英夫氏は講演で、「アテルイと悪路王を同一視してはいけない」と話している。
奥州市埋蔵文化財調査センターの解説員は新聞のインタビューで、「みなさんよく誤解しているんですが、アテルイと悪路王は別の存在です」と答えている。
伝説とはなにか
『吾妻鏡』の成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃とされ、河内国でアテルイが捉えられて斬られた延暦21年(802年)からおよそ500年後となる。頼朝が達谷窟で悪路王伝説を聞いたという文治5年(1189年)で区切っても387年もの時間差がある。
織田信長を例にあげると、本能寺の変で自害したのは天正10年(1582年)で、21世紀における最初の年となる2001年まで419年の時間差がある。この間に様々な逸話が創出され、信長を題材とした作品はサブカルチャーだけでも現在進行形で漫画・アニメ・ゲームなどの幅広い作品において架空戦記・パラレルワールド物から女体化・美少女化・内閣総理大臣化など、ありとあらゆる創作が進んでいる。
伝説とはつまり、そういう類いのものでしかない。
『吾妻鏡』が成立してから2019年現在までの約720年間に、様々な人の手によって多種多様な坂上田村麻呂伝説が創作され、時代を越えて語り継がれてきたことで、現代人の我々がこうして田村語りに触れることが出来ている。はたして今から700年後の27世紀に、真実の信長は女性で美少女で内閣総理大臣であったと議論されているだろうか。伝説の裏にある隠された歴史の真実はこれだ、などと結論するのは実に簡単なことである。簡単だからこそ少し立ち止まって伝説と史実の境界線や、どのくらい史実が反映されているのかなど、アテルイの人物像を見失う前に今一度考えてみてほしい。
物語の中の悪路王
室町時代のお伽草子『鈴鹿の草子(田村の草子)』では、悪路王を討伐したのは田村丸俊宗の父・藤原俊仁である。
江戸時代の奥浄瑠璃『田村三代記』で悪路王を討伐したのは田村丸利仁の父・利光である。
これら物語を通して東北各地の神社仏閣などの本地譚(坂上田村麻呂伝説)が形成されていった。
『田村の草子』
藤原俊仁将軍が内裏に参内している間に、妻の照日御前が魔縁の者に拐われた。これを知った俊仁は愛宕の教光坊と東山の三郎坊から教えを受けて朽ち木に問うと、朽ち木は母である近江の大蛇に変身して、照日御前を拐ったのは陸奥国高山の悪路王であり、鞍馬の毘沙門天の力を借りるよう教わった。さっそく鞍馬へと参拝すると多聞天の剣を得た。
悪路王討伐へ向かう途中に立ち寄った陸奧国初瀨郡田村郷で俊仁は賤女に一夜の情けをかけた。神通力で子供が生まれることを予見して上差の鏑矢を残した。
高山にある悪路王の鉄の居城に向かうと、東門には美濃国より拐われた女が馬飼の女房として門を守らされていた。悪路王が留守の間に帰れと言われたが、悪路王の居城に入る方法を聞くと、馬飼の女房から悪路王に飼わされている地獄龍という龍馬に乗って向かうのだと教わる。俊仁が地獄龍に乗ると主人である悪路王のいる越前へと飛んだため、毘沙門天より授かった剣で地獄龍を鎮め、地獄龍に引き返させて悪路王の居城へとたどり着いた。城門は閉まっていたが、毘沙門天に祈ると門が開いた。城内に入ると照日御前や他の拐われた者たちが嘆き悲しんでいた。そこに空が曇り悪路王が帰って来たため、多聞天の剣を投げ掛けると悪路王の首を落とした。俊仁は妻や拐われた者を連れて都へと帰った。
陸奧国初瀨郡田村郷の賤女が生んだ子供が、後に天女・鈴鹿御前と婚姻して近江の高丸や鈴鹿山の大嶽丸を討伐する坂上田村丸俊宗である。
- 藤原俊仁(としひと)は藤原利仁(としひと)に名前が繋がる。
- 越前敦賀には藤原利仁伝説が多く残る。『今昔物語集』巻26第17話に「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将て行きたる語」が記載された影響から、『田村の草子』では俊仁将軍の乗った地獄龍が主人である悪路王のいる越前へと向かう設定なのだろうか。
- 俊仁将軍と鞍馬寺、大蛇の関係は『鞍馬蓋寺縁起』の影響が大きい。鞍馬寺に祈願して下野国の群盗である蔵宗・蔵安を討伐し、その感謝に毘沙門天像と剣を奉納したとある。『田村の草子』での俊仁将軍による近江国見馴川の大蛇退治の倉光・倉介のモチーフと考えられる。
- 一方で坂上田村麻呂は公卿補任で毘沙門天の化身とされているが、鞍馬寺とのゆかりがない。
『田村三代記』
- 『田村の草子』からの古態を残す『田村三代記』の第一群には悪路王が登場するが、第二群では悪路王退治が奥州鎮圧に変化している。
奥州で争乱が起こり、公卿は二条中納言利光を奥州大将軍に命じて鎮圧に向かわせた。利光は帝から授かった素早丸の太刀を佩き、漣という名馬にまたがって千人の軍勢を率いて奥州利府の郷へと向かった。奥州の諸大名は将軍を白河関まで迎えに出た。大蛇から生まれた将軍に我も我もと従って奥州の争いは治まった。
泰平の世となった奥州で三年が過ぎ、上洛の土産に七ツ森で御狩をすることにした。宮城、国分、名取、柴田、刈田、伊達、信夫、白河の諸大名などが七ツ森の陣屋で待った。三日間の御狩では霞源太が大熊を仕留め、御狩が終わると諸大名とその場で三夜に渡る酒宴をした。酒宴でお酌をした九門屋長者の水仕をしていた悪玉から形見に鏑矢が欲しいと願われたため、二本の鏑矢から乙矢を与えた。その後、将軍は上洛して帝へと奥州鎮圧の報告をして日の本将軍にに任じられた。
- 藤原利仁の名前は坂上田村丸利仁(としひと)に融合されている。
- 妻が拐われて悪路王を退治する物語も、争乱が起こった奥州を鎮圧する物語へと変化している。
- 物語としての構造は、奥州へと向かった将軍が一夜の契りを交わした賤女が坂上田村丸を生むという基本部分を残しつつ、中世的な鬼退治から近世的な軍記物語へと変貌している。
- 七ツ森の御狩のモチーフは慶安3年(1650年)に伊達忠宗が蔵王山で行った巻狩で、霞源太のモデルは田村男猿である。坂上田村麻呂の子孫を称した愛姫を正室とした伊達政宗の頃から、仙台藩の庇護下で奥浄瑠璃『田村三代記』が演じられた影響から改編された。
関連イラスト
創作作品では
同名キャラクター
『AYAKASHI』
夜明エイムも参照。
『大神伝』
『かくりよの門』
『盟約のリヴァイアサン』
十條地織姫も参照。
モチーフキャラクター
『神咒神威神楽』
『ポケットモンスター』シリーズ
ポケットモンスター サン・ムーンで初登場するポケモン「アクジキング」の名前の由来という諸説が存在する。
『あやかしランブル!』
「不撓の闘鬼」を参照。
『呪術廻戦』
詳細は悪路王大嶽を参照。
『天外魔境ZIRIA』
関連タグ
宮沢賢治 - 詩歌『原体剣舞連』の一説に悪路王が登場する