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盛岡城

もりおかじょう

現在の岩手県盛岡市に存在している、日本の近世城郭である。日本100名城のひとつに数えられる。
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現在の岩手県盛岡市に築かれた城で江戸時代には南部藩の本城となった。


概要編集

盛岡城=不来方城とされることもあるがは厳密に言えば異なる城。

 

丘陵地帯に築かれた平山城。本丸・二の丸・三の丸が細長い形で配され、間には空堀で隔てられで繋げられていた。

また白い花崗岩による石垣があらゆる場所に配されている。東北は石材が取れにくいこともあり山形城仙台城は土塁と併用しているが盛岡城は東北の城の中では珍しい総石垣造りの城となっていた。

江戸幕府への配慮からか天守台に天守閣は作られなかったものの独立式層塔型3重3階の本丸が設けられていた。


歴史編集

安土桃山時代江戸時代編集

南部氏がこの城の築城することになった経緯については不来方城の記事を参照。


1592年(文禄元年)、南部信直は領土が接する伊達政宗に対する警戒から居城を福岡城(九戸城)から南方の不来方に移すことを決め城下町の形成を始めた。築城自体は豊臣秀吉の許可が出なかったため遅れたが許可が出た1597年(慶長2年)、嫡子・利直に築城を命じ利直は普請を開始。その翌年に信直が病死し利直が家督を継ぎのち南部藩初代藩主となってからも普請を続けていた。1615年(元和元年)に大体完成したことから利直はそれまでの仮の城である郡山城(高水寺城)から移転した。城葉二代藩主・南部重直(利直の長男)の時代の1633年(寛永10年)に完全に竣工した。しかし翌1634年(寛永11年)、失火により本丸を焼失し福岡城に一時的に移ったことはあったが、それ以降は南部氏の居城であり続け明治維新を翌年の1635年(寛永12年)には修復され盛岡に戻った。利直は「人が寄って来ない」という意味の不来方の名を忌避し「森が岡」と改名した。その後、いつしか森岡と呼ばれるようになったが三代藩主・南部重信(利直の五男で重直の後継)の時代の1691年(元禄4年)に「盛り上がり、栄える岡」という意味の「盛岡」に改名したとされる。


明治時代以降編集

明治時代になり廃藩置県により廃城された。廃城令においては存城となったものの、建物の老朽化が激しかったらしく、建築物はほぼ取り壊されており、残存しているのは土蔵と門が移築されたのみであるとされる。跡地は陸軍の用地とされ、残りは南部氏に払い下げられ、岩手県により公園として整備された。


1937年(昭和12年)、石垣などが史跡に認定、2006年(平成18年)、日本100名城に認定。

 現在この城が存在していた区画は岩手公園となっているが、日本100名城に認定された際に盛岡城跡公園という愛称を付けられている。


擬人化されたキャラクター編集

不来方城盛岡城(城姫クエスト)盛岡城(御城プロジェクト)を参照。

ちなみにpixivにおいては擬人化されたキャラクターのイラストが多数を占める。


関連タグ編集

 日本史 江戸時代

城姫クエスト 御城プロジェクト

不来方城 盛岡城(城姫クエスト) 盛岡城(御城プロジェクト)


参照…wikipedia同項目

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