概要
この城は陸奥国岩手郡に存在した城であり、南部氏により慶長3年に建築、寛永12年に再建された城であり、明治時代に解体された城である。
別名不来方城(こずかたじょう)ともいうことがあるが、不来方城は厳密に言えば城郭自体は別に築城されているため、盛岡城の前身となるものであり、異なる城である。
なお、ブラウザゲームやソーシャルゲームなどで擬人化されたキャラクターは不来方城、盛岡城(城姫クエスト)、盛岡城(御城プロジェクト)を参照のこと。
城の形式等
この城は丘陵地帯に築かれた平山城であり本丸・二の丸・三の丸が細長い形で配され、間には空堀で隔てられ橋で繋げられていた。
また白い花崗岩による石垣があらゆる場所に配されており、石材が取れにくく土塁が多い東北の城の中では珍しい総石垣造りの城である。
この城は独立式層塔型3重3階であったとされ江戸幕府への配慮からか天守台に天守閣は作られなかった。
歴史
また、室町時代に福士氏(源義光を祖とする豪族、戦国時代には南部氏に仕えるものの親戚にあたる九戸政実が反乱を起こしたため追われ、八戸の藩士となる)が不来方の地に設けた「慶善館」が、すなわち本来の「不来方城」とされる。
慶長二年に三戸(ここに存在した三戸城は小規模であったらしくその後も維持管理されていた模様)から(九戸政実の乱の平定により手に入れた)九戸に移り、防備の点により不来方へ移転した南部信直(陸奥国の武将、戦国大名、資料に出てこない点でドロドロな気がする)により築城が開始された。
この城は隣接するようになった伊達政宗への対策であるとされ築城の際は浅野長政(戦国大名、豊臣政権の五奉行筆頭。なお、元禄赤穂事件の浅野内匠頭長矩は三男の曾孫にあたる)および蒲生氏郷の助言もあったとされる。
正式許可は翌年であり築城奉行は嫡子である南部利直(この城が完成する前に父が亡くなったため盛岡藩を継ぐことになる)だったとされる。
それに伴い名称を「盛り上がり栄える岡」という願いを込め「盛岡」と改名(九戸城も福岡城と改めたが、この城は盛岡城が火災でやけ再建された間は利用されたものの、寛永年間に廃城となっている)。
そしてこの城は火災などもあったものの、明治まで南部氏の居城として利用された。
明治時代の廃城令においては存城とされたものの、建物の老朽化が激しかったらしく、建築物はほぼ取り壊されている(現在残存しているのは土蔵と門が移築されたのみであるとされる)。跡地は陸軍の用地とされ、残りは南部氏に払い下げられ、岩手県により公園として整備された。
以後
昭和12年、石垣などが史跡に認定、平成18年、日本の100名城に認定。
現在この城が存在していた区画は岩手公園となっているが、平成18年には盛岡城跡公園という愛称を付けられている。
pixivにおいては
これほどの歴史がありながら擬人化されたキャラクターのイラストが多数を占める。
関連タグ
不来方城 盛岡城(城姫クエスト) 盛岡城(御城プロジェクト)