廃藩置県
はいはんちけん
廃藩置県は明治維新期の明治4年7月14日( 旧暦、太陽暦換算1871年8月29日 )に内務卿大久保利通の主導で行われた行政改革である。江戸時代の265年間存在した大名領(藩)を廃止し、政府直轄の行政組織である県に置き換えた。これがきっかけで大久保は武士の怨みを買い暗殺されるにいたる。
これにより藩と府県(政府直轄地)が混在していた日本の地方行政制度が一元化され、統一国家化したとされる。
多くの藩はこの政策にすんなりと従っていった。というのも、1871年という年は戊辰戦争の影響が色濃く残り、藩の運営状況が限界であったためである。南部藩など、倒産した藩も少なくなかったのだ。苦しい財政状況をなんとか乗り切るために当然借金をするわけだが、その借金もあっという間に高額になる。廃藩置県の代償として、政府は藩の借金を肩代わりすることを約束した。
また、当時の大名は多くが江戸生まれ、江戸育ちであった。政府から東京への招集は、藩主にとっては全く苦にならなかったのである。
府県制度が定着するまでには明治4年( 1871年 )~明治21年( 1888年 )までの17年ほどの時間がかかっている。
明治2年6月17日( 1869年7月25日 )、版籍奉還が行われるも、大名の支配する地域は知藩事として引き続き統治、天領などの直轄地は政府が知事を派遣し、これを統治する形式をとった。しかし藩の統治と国の政策が合わないなどの弊害が指摘されていた。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県
各地に存在した藩が廃止されて「県」に置き換えられる。この時点での県の数は306府県。
沖縄
明治5年(1872年)、鹿児島県の属国であった琉球王国を琉球藩とする。
その後も琉球藩は清朝と大日本帝国の二重冊封状態を続けたものの、政府は琉球藩の外交権の回収、負債の肩代わりを経て、清国との断交を要求する。明治12年には軍隊・警察が首里城に入り藩主を東京に連れ去った。これにより、沖縄でも廃藩置県がなされ沖縄県が成立した。これは冊封体制の維持を望む清国との紛争に発展したが、これは日清戦争までくすぶることとなった。