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日清戦争

にっしんせんそう

日清戦争は1894年より翌年にかけて発生した日本と清国の戦争である。
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この戦争は1894年よりその翌年、日本のでは明治27年から28年にかけて、朝鮮半島の利権のために発生、陸上においては朝鮮半島および中国大陸の東北部を主たる戦場とした戦争であり、結果として大日本帝国の勝利、清朝台湾・澎湖列島および遼東半島(後に返却)を割譲、多額の賠償金の支払いを課せられ、清の滅亡の一因となった。

 なお中国ではこの戦争を甲午戰爭および第一次中日戰爭と呼ぶ。


概要編集

前史編集

 近代的な国家の建設を目指す日本は、独立主権国家を基本単位とするヨーロッパの国際法秩序を採り入れようとしていた。

 一方、みずからを中華帝国として周辺諸国、一例としてはベトナム朝鮮などに対し宗主国冊封国の主従関係を強いる清国と、しばしば朝鮮の主権をめぐって対立した。具体的には日本は「朝鮮が独立国として存在すること」が日本にとって肝要だと考えたのに対し、清国は「朝鮮はあくまでも自国の属国である」と主張したのである。

 さらに朝鮮は腰の据わらない政策を採り続け、クーデーターおよび内乱が頻発していた。

 明治27年5月に朝鮮において東学党の乱(1894年に発生した農民反乱と宗教団体東学が結びつき、組織化して蜂起し発生した内乱、甲午農民戦争とも)が起きると、清国はこの内乱を自力での制圧が不可能であった朝鮮政府の要請に応えて属邦保護のために派兵した。それにより天津条約(朝鮮の開化派が起こしたクーデター、清朝の介入により失敗した甲申政変の講和条約)により派兵を知らされた日本も直ちに派兵、その結果一時的に内乱状態は解消された。

 朝鮮は条約を盾に朝鮮半島からの双方の撤退を要求するも両国とも反対(内乱が起こる可能性が高いことが理由と思われ、現にこの戦争中に内乱は再発した)、さらに両国共同による朝鮮の内政改革を提案したものの、これを清国は拒否(これは清国と朝鮮との宗属関係を断ち切ろうとするものであると思われたため)した。

 両国の対立は決定的なものとなり、同年7月、豊島沖の海戦(豊島沖海戦、戦争開始状態で起こった海戦であり、このとき清国側がチャーターした第三国の輸送船を沈没させた高陞号事件が発生した)によって、日清戦争は始まった(後に両者は宣戦布告した)のである。

戦争開始後編集

 この戦争の開始当初、欧米の新聞は大多数が清の勝利を予想し、小国であった日本の軽挙妄動を惜しんだ。

 ところが、明治維新を成就して以来の日本は、国内改革を進めてよく訓練された軍隊を持っていたのに対し、専制体制の清は国内改革に立ち遅れ、強大な国力を存分に発揮することができず、戦争は日本がむしろ優勢となった。

 山県有朋の率いる第一軍は、明治27年10月末に鴨緑江を渡って満洲に進軍し、大山巌の率いる第二軍は、28年3月までに遼東半島を完全に制圧した。

 一方、伊藤祐亨の率いる日本艦隊は、清の北洋艦隊を27年9月の黄海海戦で撃破、後に残存して威海衛に立てこもった艦隊を陸軍と共同で攻め、降伏させた。

 また、戦争後の交渉を有利とするため日本は澎湖列島を占領した(なおこの作戦中コレラなどの疫病により日本軍全部の戦死者よりも多い人数が病死している)。


終戦およびその後編集

 勝ち目がなくなった清朝は明治28年4月、下関において日清間の講和条約を結ばされた。

 この条約におり、清は属国であった朝鮮の独立承認、日本に対し台湾澎湖島・遼東半島の割譲、賠償金2億両(清のによる貨幣単位、当時の日本円で3億円以上)の支払いなどを約束したのである。

三国干渉編集

 ところが以前から満洲進出の機会をうかがっていたロシアは、日清の講和条約が結ばれるや否や、ドイツフランスとともに、遼東半島を清へ返還するよう日本政府に申し入れてきた。これらの大国に対抗する力を持たなかった当時の日本政府は、やむなく返還に応じた(ただし無償返還というわけではなくこれにより日本は銀3000万両を受け取ることになった、清朝にとっては踏んだりけったりである)。


天皇・皇后の動き編集

 この戦争のさなか、明治天皇は前線の将兵に少しでも近い所でという思いから当時の東京を基点とする鉄道の終着地であった広島の第五師団司令部(広島城に置いており、本丸御殿の跡地に建てられた建物に存在した)を大本営にあて、その狭い一室で8ヶ月間も、日々の御政務を執り行っていた。

 とりわけ戦況報告は「深夜でも上奏するように」と指示し、燈下に地図を広げて細かくことも度々であったという。

 なお大本営には明治28年5月の戦争終結まで滞在したが、その後も台湾の平定等でこの大本営は活動し、明治29年4月に解散した。

 また皇后(昭憲皇太后)は日本赤十字の設立等に深く関わっており、傷病兵のことを大変に心配し、たとえば、侍医を陸軍に遣わして包帯の種類や製法上の心得などを詳細に問い、みずから白衣を着て、宮中の一室で女官とともに日々包帯の製作に勤しんだが、その包帯は直ちに予備病院や戦地の野戦病院などへ下賜されている。

 また、大婚二十五年の祝典の際に全国から献上された真綿を、寒気に悩む出征軍人のために下賜されたりもしている。

 さらにその御手許金から義手・義足の製作費用を支出している。それによって作られた義手義足(その数150ほど)の一部は、清国の捕虜10数名にも与えられたという。

 そのうえ明治28年の3月、広島へお出ましになり、22日から一週間、広島陸軍予備病院および また海軍病院において、親しく傷病将兵を慰問した。まず士官患者一人一人に枕元でお言葉を賜り、ついで下士兵の重患者にも言葉をかけ、さらに清国の負傷兵の病室も訪れている。

 なお、御名代として彰仁親王妃頼子さまが熊本福岡佐世保の各陸海軍病院へ派遣されたこともある。


そのほか編集

  • この戦争において日本軍の軍紀は悪くなかったようではあるが、一部では略奪および虐待等の言動があったとされる。
  • 一方清国軍の軍紀は前時代的なものであったと思われる節が存在し、以後の戦争においても兵士のそれはあまり変化がなかったのではないかと思われる。
  • また、旅順における住民虐殺(wikipedia)が発生したとされるが、これは南京大虐殺と類似している点がある。

関連タグ編集

戦争 日本 大日本帝国

清朝 清国 大清帝国

満州 満州人 女真人


参照編集

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