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南京大虐殺

なんきんだいぎゃくさつ

日中戦争中、日本軍が当時の中華民国の首都であった南京を占領する際に起こした大規模な略奪・暴行・虐殺行為。「南京事件」とも呼ばれる。
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注意書き

第9条 禁止行為
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概要

"戦闘員・戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである"産経新聞、昭和51年6月23日付「蒋介石秘録」より)

1937年の南京事件は、昭和12年11月より昭和13年にかけて、日中戦争(この当時は宣戦布告を行っていないため日本国内では支那事変)の最中に起こった。

第二次上海事変に敗れた国民革命軍は、中華民国首都であった南京(江蘇省に存在する都市であり、中国の南北朝南朝大明初期では首都とされていた)周辺で抗戦を試みた。日本国としては都市部での戦闘は避けたかったようではあるが、現場部隊は暴走し勝手に攻撃を開始、事後了承により戦闘開始となった。劣勢と見た国民革命軍は首脳が南京より逃走しており、兵士は無秩序の状態となり首都は占領された。
 ところがこの前後において日本軍は放火略奪婦女暴行を行い、投降した兵士や非武装の民間人など多くの中国人を虐殺したとされる。便衣兵の処刑から始まったものと思われるが、便衣兵との証拠がないままの処刑もあり、そこから南京までの道中でのストレスを発散させた形だ。また、捕虜を処刑した理由として、捕虜になることが恥とされた日本軍において、あっさり降伏した中国兵は軽侮の対象だったからと思われる。この考え方は後の太平洋戦争でも存在した。
 支那事変(後に第二次世界大戦に統合される)後、極東国際軍事裁判において当時中支那方面軍の司令官であった松井石根大将がこの事件の責任を問われて死刑に処せられている(ちなみに「平和に対する罪」は無罪であるため、彼はA級戦犯ではない)。

 しかし、日本国内においてはその虐殺そのものを疑問視する意見・論壇も多い。しかし日本でも否定論が広く受け入れられたのは歴史修正主義の試みが産経新聞などの一部マスコミに流布した平成以降であり、それまでは上記のとおり、産経新聞のようなメディアにおいても南京陥落の際大規模な虐殺行為があったとするのが常識であった。

犠牲者の内訳

 南京虐殺、また日本軍の仕業とされている虐殺における犠牲者は主に3つのタイプに大別される。

  1. 投降してきた中国軍兵士が殺害されたもの
  2. 民間人が虐殺されたもの
  3. その他
1については「幕府山事件(捕虜移動中に捕虜より攻撃されたため反撃した事件。約1,000名が射殺されたと公刊戦史である戦史叢書にはある)」、「下関の捕虜虐殺(下関は「シャーカン」という揚子江に面した波止場であり、ここにおいて敵兵士を処刑していたという証言が存在する)」、「第66連隊事件(第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊の歩兵の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報の記述では連隊長の命令により旅団命令により捕虜は全部殺すへしとの命令が下され、それに忠実に動いたという説)」、「安全区掃討(国民革命軍の兵士軍服を脱ぎ捨て安全区内に逃げ込んだとして日本軍は掃討作戦を行い、数千人から2万人近くが逃亡兵として処刑されたとされる)」などの例がある。2については南京の金陵大学(1910年匯文書院として成立したミッションスクールであるが、中華民国に接収、その後紆余曲折を経て南京大学となる。当時は難民区難民収容所に指定されていた)の教授であったLewis S. C. Smytheの調査記録や南京にいた外国人たちの証言、また当時の加害者である日本軍兵士や被害者だった中国人の証言などが存在している。あるいは民間人に偽装した中国兵、傭兵など国際法上処刑されてもおかしくない立場の人間も含まれている。3については安全地帯で摘発され、揚子江で処刑された中国兵士、督戦隊に処刑された中国兵士、野戦病院で治療を受けたが死亡した中国兵士など、中国側の行動・不手際によって犠牲になったものがある。

当時の日本での反応

 南京攻略の司令官であった松井石根にも日本軍の残虐行為は一部しか知らされていなかったと見られ、彼は東京裁判で死刑判決を受けた後、巣鴨拘置所内で教誨師(受刑者の徳性の育成や精神的救済を目的として行われる活動を行う人々)に対してこう語っている。
南京事件はお恥ずかしい限りです。(中略)慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。(中略)折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。」(この発言は花山信勝『平和の発見』に記載されている)
 そのほか、内地にいた真崎甚三郎(第1師団長、参謀次長、教育総監などを歴任した軍人、当時大将。二・二六事件の首謀者とも目される人物であり、日記にその記述が存在する)、河辺虎四郎(関東軍に所属したりして大日本帝国陸軍の中枢にいた人物で終戦時の参謀次長。その発言は回想録である市ヶ谷台から市ヶ谷台へに記載されている)ら陸軍中枢部の軍人も当時の日本兵の軍紀が乱れていることを憂う記述を残している(ただしこれらは本当に彼らがそのように考えたのかは不明であり、後に書き加えた可能性も否定できない)。
 一般の日本国民は南京陥落のニュースにすっかり慶祝ムードであった。日本の新聞は日本軍の武勇伝や戦場美談、軍当局の発表を伝える記事ですっかり埋め尽くされており、日本軍の虐殺行為を伝える記事などはまったく存在していなかった。
 これは日本のジャーナリスト新聞記者らも南京攻略戦に同行していたものの、厳しい報道統制や検閲のために軍に都合の悪いことが新聞などのメディアに掲載されず、むしろ当時の報道当局の規制に迎合し、最初から都合の悪いことは書かないようにするものが主だった。
 ところが中にはそうではないものもおり、「中央公論」特派員だった石川達三は南京での残虐行為に加わった兵隊たちの実態と心理をフィクションとして描いた「生きてゐる兵隊」を発表している。しかし、石川の著作が載った「中央公論1938年3月号」は発禁処分に処せられ、石川と「中央公論」の編集長は起訴され有罪判決を受けた。

当時の日本以外の反応

 中華民国の指導者であった蒋介石は日記にこう記している。
倭寇(ここでは日本軍をさす)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ』(一九三八年一月二十二日の日記)
 また、南京陥落を目撃した記者らはリアルタイムで事件の情報を伝えていたとされる。「ニューヨークタイムズ」記者のティルマン・ダーディンが記事を打電している。
「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった。(中略)大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の都市と化してしまった。」(ニューヨークタイムズ1937年12月18日付) )
一方で、同誌は「南京における日本軍の乱暴狼藉と思わる中には、中国側の撹乱工作隊の仕業とされる事件があった」(ニューヨークタイムズ1938年1月4日付)との報道もしている。
 さらには、日本の外交官宛にイギリス人外交官が「市民への虐殺被害」を外電で報告したという話も存在している。

反論

 虐殺があったという意見に関しては次のような反論が存在している。ただし、反論の中には有効ではないものも含まれている、その反論に関する批判は括弧にて示している。

  • 虐殺が始まったとされる1937年12月の写真には戦闘が始まった様子は見られない(『支那事変画報』1938年1月27日朝日新聞社発行、ただし虐殺等の事実が存在しており、写真等が存在していた場合であっても検閲により掲載できなかったことが存在することは否定できない)。
  • 日本軍は国際法に無知だったとする意見もあるが、当時の陸軍兵士は常に『陸軍刑法』『陸軍懲罰令』を携帯していた。これには捕虜への虐待略奪に対し厳しく規定されており、特に南京戦では司令官により「絶対にそのようなことをしないように」といわれていた。松井大将は国際法の権威であった斎藤良衛博士を同行させ、彼の意見から「南京城攻略要領」を作成。外国権益や住民の安全区・文化遺産を地図に朱書し、最前線の部隊にも配布した(ただし支那事変は国際法における戦争ではない扱いとした節があるため捕虜の虐待は対戦国の双方にあったのではないかという疑惑は存在する)。
  • 南京攻略戦の続いたある日、通訳官の岡田尚は中国人赤ん坊が焼け跡に取り残されているのを発見し、松井石根大将に報告。松井はその赤ん坊に「松子」と名付け、帰国するまで可愛がった。そのような人物が虐殺を命じるであろうか(このあたり司令官ではなく参謀やその末端がそのような命令を出していた可能性が存在するものの、このあたりをあまり問い詰めると皇族が虐殺等にかかわっていたことになりそうなので追求しなかったとの説も存在しているといわれる)。
  • 松井大将の厳しさを物語るエピソードとして、歩兵第36聯隊の脇坂次郎部隊長(大佐)が東京裁判にて、南京城に入ったある主計中尉が婦人靴を拾ったところ、略奪罪の疑いをかけられたというほど。非常に徹底したものだった(ただしその厳しさが指揮下のすべての部隊に伝わっていたかどうかは不明であり、支配下の隊長すべてがそれを遵守していたかどうかは不明である)。
  • 南京攻略直後の日本軍は、長期戦による疲弊と武器弾薬の消耗で、三十万人を殺害する余裕などなかった。また、三十万人の死体がどこへ消えたのか全く不明であること(一方で、外国人記者や日本軍兵士の中に、川を埋め尽くすほどの死体が流れていたとの証言もある。ただし写真などが残っていないため、情報の信憑性は薄く、また三十万人の死体の一つが流れ着いたとの情報もない。また、この川に浮かぶ死体とは、南京から脱出しようとした兵士や民間人が泳いで渡河しようとしたため、途中で大量に死亡したものとの見解もある)。
  • マイナー・シール・ベイツ(金陵大学の歴史学教授、事件当時南京安全区国際委員会委員を勤める)は「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」と東京日日新聞(現代の毎日新聞)の記者と握手している(東京日日新聞昭和12年12月26日号)(東京日日新聞自体は中国大陸でのに好意的であり、「百人斬り競争」記事などを書いていたりするため、記事の内容に信頼性はまったくない。尚百人斬り競争の記事は後に捏造報道だったと当時の記者が認めている)。
  • 虐殺とされるものの写真の中には便衣兵(一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人、ゲリラ)のものもある。当時の国際法において彼らの処刑は合法となっていた(ただし、彼らが本当に便衣兵であったかどうかは不明な点も存在するが、国民党兵士は多くの傭兵を雇っており、多数の便衣兵が混じっていた可能性は充分に考えられる)。
  • 中国が提示する証拠写真の中には、調査の結果、合成写真であるもの、軍服の配備年と事件の年が違うものなどがある(ただし全ての虐殺が否定できるものではない)。
  • 南京陥落から3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録がある。これは東京裁判の判決において、中国軍が南京防衛の為に残した兵力が約5万人としており、日本軍の南京入城後に投降してきた者を合わせた数字と考えられる。(攻略戦が始まる前の人口は100万人程度存在したが、きな臭くなった11月時点で公式記録で50万人、終わりごろにはさらに40万人から30万人に減少したのは確実であるが、20万人という数字は安全委員会公文書の数字であり、把握できていない難民も存在していると思われ根拠は薄い。ただし把握できない難民が万単位で存在するとは考えにくく、また安全委員会も難民救済の食料を確保しなければならなかったため、この数が正確である可能性も高い。日本軍の調査は25万人であり、ちょうど市民20万人と兵士5万人で辻褄が合う。しかし大量の逃亡兵、この中には便衣兵や現地徴収の兵士とはいえない人々なども存在したため増えた可能性もある。これらを見ると、突発的な虐殺は否定できないが、30万人の虐殺は不可能であることがわかる)尚、2月上旬に安全区が解散された後、スマイス教授が多数の中国人を動員し、人口調査を行った結果、3月下旬の南京人口を25万人ないし27万人としている。3月28日に発足した南京維新政府南京市政公署が登録した住民の数は27万7千人としている。
  • 毛沢東は生涯、一度も南京虐殺に言及したことがないとされる(それは一応協力関係ではあったが敵対している国民革命軍の不手際であるし、何より中国軍側司令官であり、逃走して混乱の原因となった唐生智は戦後中国共産党の幹部であるためあまり突っ込めない)。
  • 当時南京に在住していた外国人記者による虐殺報道は伝聞情報が多く、実際の目撃談が規模に比べ少ない。日本公使館に抗議した件数は、占領後3ヵ月間で47件ほどであり、確実に殺されたという東京裁判の証言者も1人しかいない。『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員も一般人の虐殺は見たことがないと東京裁判陳述書において語っている(ただし中国兵を処刑しているところを見たと証言している)。また、文芸春秋のインタビューにおいては「道中での虐殺行為は見ていない(ただし戦闘地域を避けて行動している)し、聞いたこともない」と証言している。
  • 絶滅収容所と名高いアウシュヴィッツですら日の殺害数は平均して710人だった。事件を考慮し、1日平均3万8千人も殺害するためには、アウシュヴィッツ並の施設が53ヵ所も必要になる計算で、誰が密閉された城壁内とその近郊でその光景を見たのか
  • 15万7千人の死体を埋葬したとあるが、この膨大な数の死体を運搬・埋葬するのには途方もない男手が必要であり、中国人男性が鬼の如く殺された南京において、このような男たちはどこにいたのか(ただし女性や子供、南京城外の人間を動員すれば、長期間での埋葬は可能である)。
  • 集団殺害19万人、個別殺害15万人という数字が東京裁判の調査資料で出されているが、あくまでも検察側の主張の一部として提出されただけであり、弁護側の反論によって判決では退けられている。

事件をめぐる論争

 一部で記述が当てにならないといわれるWikipediaにおいても「南京事件」の項目とは別個に「南京大虐殺論争」の項目が設けられているほどの問題である。

政府見解

 なお中国政府は公式に南京大虐殺における犠牲者を30万人以上としている。
 また「南京事件の犠牲者数は年々増えている」と言われる事があるが、中国政府(中華民国および中華人民共和国)自身の見解としては、戦後の南京軍事法廷以降およそ30万以上で一貫している。
 これは事件前後の混乱(攻略戦そのものによる死傷者以外にも陣地構成の際に発生した死傷者、その後の同士討ちなどによるものや強制徴収した兵士の逃亡などの要因により人数の把握ができない部分が存在する)や事件後の遺体処分(死体は調査されず埋葬されたり、揚子江に投げ捨てたりしている)等によって犠牲者の正確な数を把握する事が困難となっており、10万単位で増減する様々な数字が飛び交い、果ては300万とも言われた中、調査結果を総合した結果「最も信憑性が高い数値」とされた30万が採用されたためである。
 つまり「元々±の幅が広い曖昧な数字だったので、より大きな数字の説も普通に存在する」というのが正確なところであり、実際当時からあくまで一説として40万や50万という数字が持ち出された事もあるが公式採用はされたことはない。
 2015年10月9日、ユネスコは中国政府の申請通り、南京大虐殺資料(犠牲者30万人)を世界記憶遺産に登録した。しかし登録までの協議において、中国側の提出した資料の信憑性は確かめられておらず、逆に日本の反論はまともに受け入れられなかった。これに対して日本政府は、ユネスコの非中立的な立場を批難し、分担金の拠出を2016年春頃から保留していた。その後、ユネスコによる記憶遺産審査制度について見直しの作業が進行していることを評価し、同年12月より拠出を再開した。
 また東京裁判中、連合国側判事で戦犯たちを擁護した(ただし、これは当時の国際法に照らし合わせた結果、戦犯容疑がかけられた者が国際法に違犯していることを証明できなかったため)ことで知られるパール判事は、南京における目撃者と称する証人の証言の矛盾を指摘しつつも、日本軍による大規模な虐殺行為が存在したことは否定できないとした。
 日本の歴史学会の中でも、見解が分かれており、数千~数万人と見積もるものから十数万~20万とする者まで様々である。
 なお、日本では「数万人以上の虐殺」があったとする虐殺肯定派の間でも「概ね20万未満」が虐殺人数の上限であるとして中国側の見解をそのまま支持する者はほとんどいない。2010年1月に日中歴史共同研究の報告書が公表された際、中国国内のメディアは中国共産党宣伝部からの指示を受け、20万人を上限とする日本側研究者の見解を報道しなかった。

日本政府の見解

 日本国では、外務省のサイトに歴史問題Q&Aという項目があり、その中でこの問題に解答している。
問6 「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

  1. 日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
  2. 先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました。
  3. こうした歴代内閣が表明した気持ちを、揺るぎないものとして、引き継いでいきます。そのことを、2015年8月14日の内閣総理大臣談話の中で明確にしました。

結局のところ

 これは加筆者の独断ではあるが、この問題は中国国民党国民革命軍が無茶な防衛計画により南京を戦地にし、そして講和せずに統率の取れていない兵士を残したまま逃亡したこととがこの事件の発生の一因であり、また日本軍も本来予想していなかった戦闘であるため、部隊全体の統制が取れているとは到底思えず、実際にはその地域は戦場であったため虐殺自体は存在し、場合によっては部隊長やその下レベルで略奪等を許可していたのではないかと思われる節も存在している。
 さらには、戦場から逃走した兵士将校による犯罪行為も行われており、その中には日本軍による犯行を偽装したものも存在していた(ただし、僻地ならいざ知らず主戦場たる南京市内ではそのような『日本軍の仕業に見せかけた逃亡兵士の戦争犯罪』は常識的に考えて無理がある。だが銃殺死体を見ても日本軍によるものかは確証を持てず、また、共産党の八路軍による虐殺は存在している)。さらには戦中戦後のプロパガンダにより実際の状況がわからなくなっている点も存在している。
 また学者による人数論に関しては「論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである」(山本弘氏)と看破されている。小林よしのり氏は「数の問題でないというが、それでは日本人が殺された通州事件通化事件も同列に扱え。数が違うなどと言うな」と著している。(個と公)

関連項目

日中戦争 国民革命軍
虐殺

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