中国・南京で発生した事件。
- 南京事件 (1913年) - 1913年に袁世凱配下の軍隊が起こした南京の在留日本人3名の虐殺・略奪行為。
- 南京事件 (1927年) - 1927年3月24日にアメリカ合衆国・イギリスの軍艦が南京を砲撃した事件。普通、歴史上で南京事件(Nanking Incident)と言えばこちらを指す。
- 南京事件(1937年) - 日中戦争中の1937年12月から1938年初めにかけての南京攻略戦の際に発生した大規模な虐殺行為。政治的な理由から日本では多くの場面で南京虐殺をこう言い換えるようになっている。
- 南京事件 (1976年) - 1976年6月に南京市で発生した、文化大革命に反対し鄧小平の経済改革を支持する活動。
この項目では南京大虐殺とも呼ばれる3.について解説する。
南京事件(1937年)
"戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである"(産経新聞、昭和51年6月23日付「蒋介石秘録」より)
1937年の南京事件は、同年11月より翌年1月ごろにかけて、日中戦争(この当時は宣戦布告を行っていないため日本国内では支那事変と呼ばれた)の最中に起こった。
上海戦に敗れた中華民国の国民革命軍は、首都・南京周辺で抗戦を試みた。日本軍は南京を包囲し、12月9日に総攻撃を開始。一方で迎え撃つ国民革命軍の統制は乱れきっており、指揮官が次々と逃走。13日に南京はあっけなく陥落し、17日には日本陸海軍による入城式が挙行された。
南京に入城した日本軍は、投降した兵士や非武装の民間人を含む多くの中国人を逮捕・処刑した。これは民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵(捕虜とは異なり陸戦法規の保護を適用されない)の処刑として始まり、一般市民の虐殺に歯止めがかからなくなったものと思われる。当時の国民革命軍は極めて士気が低く、一般市民を装って敵前逃亡する兵士が多かったのだが、脱走兵も便衣兵と同一視されて処刑された。
遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるを以て、其の疑いのある者は悉く之を検挙し適宣の位置に監禁す。青壮年は凡て敗残兵又は便衣兵と見なし、凡て之を逮捕監禁すべし |
歩兵第6旅団長秋山義兌少将により発せられた上記の掃討方針などに基づき、便衣兵と決めつけての民間人の逮捕・虐殺もあり、そこから南京までの道中でのストレスを発散させた形だ。その中で明らかに便衣兵でも逃走兵でもない女性を殺害・強姦することもあり、下記の『生きてゐる兵隊』などでも描かれている。
また、捕虜を処刑した理由として、捕虜になることが恥とされた日本軍において、あっさり降伏した中国兵は軽侮の対象だったからと思われる。
戦後の東京裁判によって南京虐殺の責任者とされた松井石根元大将、谷寿夫元中将等が死刑となった。
日本国内の扱いの変遷
南京攻略戦当時の日本国民は南京陥落のニュースにすっかり慶祝ムードであった。日本の新聞は日本軍の武勇伝や戦場美談、軍当局の発表を伝える記事ですっかり埋め尽くされており、日本軍の虐殺行為を伝える記事などはまったく存在していなかった。
尚、当時の報道が応じていないだけで、軍司令部や外務省は早期に軍が南京で起こした虐殺・強姦・略奪・破壊行為といった顕著な軍紀の乱れを把握していた。
日本のジャーナリスト、新聞記者らも南京攻略戦に同行していたものの、当時の報道は当局の規制に迎合し、最初から都合の悪いことは書かないようにするものが主だった。ところが中にはそうではないものもおり、「中央公論」特派員だった石川達三は南京での残虐行為に加わった兵隊や、心ならずも捕虜処刑を命じた将校たちの実態と心理をフィクションとして描いた小説『生きてゐる兵隊』を発表している。しかし、石川の著作が載った「中央公論1938年3月号」は発禁処分に処せられ、石川と「中央公論」の編集長は起訴され有罪判決を受けた。
尚、国外においては現地で虐殺に立ち会った連合国の記者によって報じられている。
戦後に始まる南京大虐殺論争化の端緒となったのは、1971年に朝日新聞記者の本多勝一が同紙で連載した『中国の旅』である。
本多は国交正常化以前から中国現地で被害に遭った人々からの聞き取り調査を行い、それをルポルタージュとしてまとめたのである。
全国紙で掲載されたことでこの人道犯罪は一般の日本国民にも知られることとなった。
当時は米中接近を契機として日中国交正常化に至る時勢であり、日本国内では中国に親和的な世論が多数派を占め、知識人からは日本の中国に対する戦争の人道的負債の清算を訴える声もあった。本多のルポはそのような立場からの代表的な言論である。
本多のルポルタージュは議論を引き起こしたものの、この時点では否定論が過熱することもなく国内の親中ムードもあって収束していく。
本多による『中国の旅』より10年ほど後、1981年になって所謂教科書問題が発生する。
これは極右の自民党議員や学者らのグループが歴史の記述を「偏向」とする政治キャンペーンを行い、文部省に圧力を加えたことで記述を歴史修正主義に有利な方向へと書き換えた件が中国と韓国の反発を招き、外交問題となった事件である。
これを皮切りとして中国側は歴史教育でそれまで扱っていなかった日本軍の戦時残虐行為を自国の教科書に掲載するようになり、矢継ぎ早に日本軍の人道犯罪や侵略行為を批判するようになっていく。
日本では先に述べた虐殺の責任者として死刑となった松井の元秘書であり、南京虐殺否定派の代表格と見做される田中正明が『"南京虐殺"の虚構』を出版し、明確に南京虐殺を否定する主張を行った。
しかし、田中が出版した松井の日誌には900か所に及ぶ改竄があり、否定論を唱えるために事実を捻じ曲げたことが批判されている。
80年代以降は戦争経験者が現役から引いたことを契機に極右が政治的に興隆していき、日中韓の間で戦時中の歴史認識問題が最大の外交問題となったことで歴史修正主義が盛んになり、日本国内でも南京虐殺を巡る議論が過熱していくようになった。
近年の日本国内では、その虐殺そのものを疑問視する意見や、日本を貶める為に極端に誇張されているとする意見(後述)も多い。しかしこのような論壇が活発化したのは歴史修正主義の試みが産経新聞などの一部マスメディアに流布した平成以降であり、それまでは上記のとおり、産経新聞のようなメディアにおいても南京陥落の際大規模な虐殺行為があったとするのが常識であった。
現在の日本政府は、「虐殺や略奪の存在は否定できないが、規模には諸説あり政府としてどの説が正しいかは認定困難」という立場をとっている。
なお、2006年から2009年にかけて第一次安倍政権下で行われた日中双方の学者を招聘した共同研究会では、中国側は30万人、日本側は数万人から最大20万人という数字を挙げており、虐殺の存在については合意を見ている。
歴史修正主義とインターネット
上述の通り、歴史認識問題に関しては最右翼と言える安倍政権下でも実証的研究によって虐殺の事実そのものは被害者数20万人台を上限として認める結論を出している。
一方で、90年代以降の保守論壇の質的変化——小林秀雄や福田恆存といった論客等が高齢や死去で論壇を去り、戦争経験者がいなくなり、冷戦終了、バブル崩壊後の日本の低迷といった情勢変化によるビジネス右翼と言われる方向への転換によって嫌中・嫌韓論が保守論壇の話題の中心となるにつれ、学術的な議論を無視して虐殺を否定する論者が見られるようになる。
00年代のインターネット上で2ちゃんねるなどを温床としてネット右翼が広まるにつれ、よりジャンクな形で歴史修正的言説が拡散するようになった。
日本の歴史教育では近現代史が軽視され、戦争犯罪問題が大きく取り扱わないことも相まって、実年齢を問わず学術的な裏付けのある知識を習得する前にネット上の怪情報を吸収するネットユーザーが増加する。
結果、根拠が乏しいとして専門家が一蹴しているような低品質な情報を元に南京虐殺を否定するようなネット上の書き込みがままなされるようになった。
また、そうした日本側の否定的な態度がより中国側の反発を煽る形となっており、それに呼応してさらに日本の極右や歴史修正主義者が過激な言動を行うといった負の螺旋構造となってしまっている。
過大評価とする意見
論拠として、国民党の中央宣伝部国際宣伝処は1937年12月1日から1938年10月24日まで漢口で300回の記者会見を行ったが、一度も南京の虐殺について言及されたことがない。国民政府が監修し1939年上海で出版された南京安全区国際委員会記録では、南京の人口は日本軍占領直前20万、占領1ヵ月後の1月には人口25万と記録されていた、といったものがある。
また上記のとおり、一般市民と同じ服を着て戦闘を行う便衣兵への殲滅と、戦意を失って一般市民に紛れて逃亡した敗残兵の処刑や一般市民への虐殺との混同も評価を難しくしている。日本軍の敗残兵と便衣兵の基準は極めていい加減であり(あるいは区別しておらず)、男性は明確な証拠もなく便衣兵と決めつけて処刑されていたが、これは中国側が便衣兵戦術を採用していたのが悪く、敗残兵と便衣兵を区別しなかった日本軍には責はないとする意見もある。
便意兵活動は戦時国際法違反として日本軍が攻撃を行ったことを擁護する研究者もいる。
しかしながら、放火や強姦や略奪といった占領に不必要な残虐行為を発生させた日本軍の軍紀の乱れ・統制欠如(南京侵略以前から対中国軍の綱紀は紊乱し、いつ虐殺を行っても不思議ではないような心理状態になっていた)の問題は残り、近代軍隊として異常な事態を招いた日本軍側の統制責任は否定できない。