概要
中華人民共和国で毛沢東が1966年から1976年にかけて起こした政治運動・社会的騒乱。正式名称は「プロレタリア文化大革命」で略称は「文革」。
封建的・資本主義的な思想・文化を批判して、社会主義的な新文化を作るための革命運動、とされているが、その実は毛沢東が復権を目論んで政敵を倒すために起こした権力闘争であった。
背景
共産主義国家の中国を作った毛沢東だったが、ソ連でフルシチョフが個人崇拝の否定や西側諸国との平和共存論などを唱えたスターリン批判をしたため、毛沢東はこれを「修正主義」と非難。中ソ関係は悪化(中ソ対立)。自らの個人崇拝が薄れる恐れを抱いていたが、現実離れした工業と農業の急速発展を目指した大躍進政策が失敗に終わり、毛沢東は国家主席を退いた。後任の劉少奇と鄧小平は経済立て直しのために市場経済の導入を進めていたが、実権派・走資派の経済重視路線は毛沢東が恐れていた「修正主義の浸透」の現実化であると見ていた。
展開
腹心である軍人・林彪の煽りも受けた毛沢東は、毛沢東思想を信奉する学生たちが結成した「紅衛兵」を利用した。彼らに毛沢東は「造反有理(反動派に対する造反には道理有り)」と檄文を送り、これをスローガンに紅衛兵が次々に増えていった。
1966年8月に毛沢東語録を手に掲げた紅衛兵たちは実権派の人物達を襲撃・糾弾・中傷し、政府・軍部の実権派と目された幹部たちを捕まえて三角帽子を被せて街頭でさらし者にして公開批判を展開。「打破四旧(古い文化・思想・風俗・習慣の打破)」を掲げて伝統的・外来的な文物の廃絶や破壊を展開し、多くの文化財を失い、苛烈な弾圧や殺戮によって多くの死傷者も生んだ。
結果、党内の実権派幹部を次々に失脚に追い込み、毛沢東は奪権を確実のものとしていた。しかし、紅衛兵はすでに毛沢東もコントロールできない存在となって暴走してしまう。
政府・党内は混乱・麻痺状態となり、軍部や一般市民との対立、紅衛兵同士での対立と武力闘争が相次ぎ、毛沢東は紅衛兵たちを農民の再教育のためとして農村へ送り込む「下放」を実施し、やっと紅衛兵の猛威を収束させた。
終結
腹心であった林彪は毛沢東の後継者に指名されていたが、内政方針で不一致が起こり、1971年、暗殺クーデターを目論むも失敗しソ連に逃亡しようとするも、その途上で乗っていた飛行機が墜落して死亡する。ベトナム戦争の最中の71年に中国はソ連に対抗するためアメリカとの関係改善を進めさせ、政治中枢で周恩来が秩序回復に努めていた。しかし、政府実権は毛沢東を後ろ盾にした江青ら四人組が掌握し、文革継続と輸出を主張し、周恩来と対立していた。
そんな中、76年に周恩来、朱徳、そして毛沢東が相次いで死去。首相に就任した華国鋒は四人組を全員逮捕して文革の終結を宣言。失脚していた鄧小平は復活し、文革の犠牲となった劉少奇は名誉を回復された。
影響
文革の影響は国外にも及んだ。北朝鮮では金日成による「主体思想」が生まれるきっかけとなり、カンボジアでは毛沢東思想を極端化したポル・ポトによって恐怖政治と大虐殺が起こることとなる。各国の反政府組織の中にも文革での毛沢東思想の影響を受けてゲリラやテロ行為を行う組織が登場し、特にペルーのセンデロ・ルミノソがその残虐なテロ行為からアンデスのポル・ポト派と呼ばれていた。
1968年にフランスパリで起こった「五月危機」はシャルル・ド・ゴール政権への新左翼学生たちによる蜂起で、毛沢東語録を愛読し強い影響を受けた学生たちが文革に憧れたものだった。ただし、学生たちは文革の実態を全く知らない、過剰な幻想によるもので、運動も総選挙でド・ゴール派が圧勝したことで鎮静化した。
文革発動時、「自主独立路線」を確立しつつあった日本共産党と中国共産党の関係は既に冷え込んでいたが、文革を機に両者の関係は断絶状態となった。日本赤軍では文革を評価しており、その後のテロ活動にもつながった。
1979年にベトナムがカンボジアを支配していたポル・ポトを倒し、懲罰と称して中国軍が侵攻した中越戦争では、文革の影響が目立った。文革によって武器や兵器の近代化が遅れていたため、ベトナム軍の最新のソ連製武器や鹵獲した米軍兵器に圧倒された。さらに、文革の元に階級を廃止したために、別同部隊同士の合同作戦や指揮官が失われた時の代行指揮官がいないなど、部隊の指揮系統で混乱が生じ、これが中越戦争での中国軍の敗因の一つとなった。
文革によって多くの文化財が破壊され、外来文化や技術の導入も大きく遅れることとなった。文革後の中国は国内の建て直しに進み、鄧小平による改革・開放政策が始まる。
現在の中国国内では文革は政治的に一種の黒歴史とされており、できるだけ触れないようにされているというイメージが日本では広く信じられているが、中国政府が公式に「失敗」と認めている為、中国において「政府のせいで一般市民が酷い目に遭う」「政府が大失敗をやらかす」ような展開を中国を舞台にしたフィクションでやる場合には「時代を文化大革命の頃にする」という手法はよく使われている。
また、中国においては文化大革命によるトラウマなどを描いた「傷痕文学」という小説ジャンルは極めてメジャーなものになっている。
つまる所、中国や中国政府を批判・揶揄するネタとして文化大革命を使っても、残念ながら当の中国政府にとっては痛くも痒くも無い、世の中に何の影響も与えない単なる自己満足に終る可能性が高いのである。(天安門事件なら、ともかくとして)
また、天安門事件(1989年の第2次天安門事件/六四天安門)時の中国共産党の事実上の最高実力者達であった鄧小平ら「八大長老(八大元老)」は文化大革命時に若者から吊るし上げられ、一時的に権力を失なった面々だった為、「若者による現政権批判=文化大革命の再来」を過剰に警戒した結果が大惨事につながったとする説も有る。