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概要編集

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(フランス語:Charles André Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの政治家、軍人。フランスの第18代大統領。所属はフランス国民連合、新共和国連合。第四共和政の時に首相を務め、第五共和政で最初の大統領となった。


生涯編集

1890年11月22日にノール県リールに誕生した。下級貴族の家庭であり、陸軍士官学校を経て陸軍軍人となった。第一次世界大戦では、フィリップ・ペタンの指揮下で戦った。


1939年9月に第二次世界大戦が始まると、劣勢の続くフランス軍で師団長としてドイツ相手に戦い、功績を上げた事により陸軍次官に任命された。しかし程無くして首都のパリが陥落すると、身の危険を感じてイギリスに亡命した。イギリスでは亡命政府自由フランスを指揮し、かつての上司であるペタンが樹立したヴィシー政権とドイツに対する徹底抗戦をラジオで呼びかけた。その後、植民地などに散らばった反ドイツ勢力をまとめたフランス臨時政府の代表となり、1944年6月に連合国軍によるノルマンディー上陸作戦が成功するとフランス本土へ進軍した。そして同年8月25日にパリを奪還する事に成功した。


1944年6月にド・ゴールは首相に就任し、ルノーエールフランスなどの国内の大手企業を次々と国営化して国の復興の為に公共投資に尽力した。しかしフランスをドイツの手から奪い返した英雄的な存在である為、民衆からの支持をバックに独裁的な姿勢が見られるとして左派系の政党から批判を浴びるようになった。


1946年1月に思うように進まない政策と政党・派閥間の争いに嫌気が差し、軍事費の削減を主張する左派系政党の予算案に反対する形で首相を辞任した。辞任した後は政党間の争いの場と化した議会に左右されないように大統領の権限を強化した新憲法の制定を目指し、1947年4月に右翼政党の国民連合を結成した。しかし完成した憲法にド・ゴールの意向は反映されず、党は内部分裂を起こしたので1955年9月に解党されて政界を引退した。


1946年10月に制定された新憲法で始動した政府は少数政党の乱立によって意見が中々まとまらず、運用は困難を極めた。1958年5月に植民地のアルジェリアで発生した独立運動の鎮静に手間取った政府にアルジェリアの駐留フランス軍が半旗を翻し、政府を打倒しようとパリへの侵攻を企てた。これに慌てた政府は、国民の人気が高かったド・ゴールを再び政界に首相として呼び戻そうとした。ド・ゴールは「半年間の全権委任」と「大統領の権限強化を盛り込んだ新憲法草案」を議会に認めさせる事を条件に首相の就任を受け入れ、同年6月に再度首相に就任してアルジェリア駐留軍の反乱を鎮圧した。



1958年10月にド・ゴールは大統領の権限を強化した新憲法を制定し、1959年1月に新憲法で初代大統領に就任した。その後は長きに渡って政権を維持し、フランスの高度経済成長や外交面での地位向上に貢献した。1969年4月に自身が提案した上院と地方行政の改革法案が国民投票で否決され、辞任して政界を引退した。

引退後は田舎で執筆活動をしていた。1970年11月9日に79歳で死去した。


名前について編集

  • ド・ゴールの名は「ガリアの」という意味である。このガリアというのは現在のベルギーからスペイン北部にかけての地域を指すローマ帝国時代の地方名であり、後にこの地方の大半を支配したフランスも雅称として用いるようになっていた。この事をド・ゴール自身も意識しており、「私はフランスだ」という発言をよく口にしていたという。
  • ド・ゴールはフランス国民に強く印象付けられており、その功績を讃えて名前が国際空港空母バラの名前などに使われている。

関連項目編集

フランス 軍人 政治家 大統領 第二次世界大戦

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