生涯
生い立ち~中華人民共和国建国まで
この人物は光緖33年に湖北に生まれ、中華民国14年に中国共産党に入党、同じころ中国国民党の軍隊である国民革命軍に入り、南昌蜂起の際毛沢東に合流。その後労農紅軍等の司令官および軍の学校の長として頭角を現し、英雄的な指揮官として知られた。
また日中戦争においては八路軍(日中戦争時に華北方面で活動した紅軍の通称、日本軍をゲリラ戦で苦しめた)の司令官として特にゲリラ戦で活躍したとされる。
中華民国暦28年、頭部に負傷を受け、ソビエト連邦まで向かい治療を受けることになる(このことが後にいろいろ重要となる)。
国共内戦においては満州方面の軍隊の司令官となっている。
建国後~文化大革命まで
中華人民共和国が成立すると軍人であると同時に指導者となる。初期には主として病気等のためあまり活躍出来なかったと思われる。
また1955年には元帥に任命されるが、元帥の中では(朱徳、彭徳懐に次ぐ)三番目であったものの年齢は最も若く、また有力な人脈も少なかったとされる。
1959年、有力な軍人および政治家であった彭徳懐(この人物もまた優秀な司令官であり日中戦争や国共内戦において活躍し、朝鮮戦争においても中国人民志願軍、実際には人民解放軍を率い参戦した、1950年代後半耄碌しかけた毛沢東に対し軍の近代化および戦略に対する相違、大躍進政策に関して意見の相違がありそのため失脚し、虐待死した)の失脚のため中国軍の権利を入手、また毛沢東のイエスマンとして動き後継者としての地位を得た。
このころには文化大革命が発生、彼は自分の立場に沿わない人物、例えば朱徳(中華人民共和国の軍人、政治家、中国人民解放軍の「建軍の父」、八路軍の基本戦略を毛沢東と提案したりした、政治家としてはたいした活躍はしなかった)などの粛清をおこない、毛主席語録(毛沢東の著作などから引用、編集された語録集であり毛沢東がまったく新しい段階に高めたマルクス・レーニン主義を標榜していた)の編集・刊行を行った。
失脚、死去、その後
しかし劉少奇(中華人民共和国の政治家、抗日運動を指揮したりしている、最高位は国家主席、しかし彭徳懐の失脚後、毛沢東の意図が読めず文化大革命中に経済に関する相違により失脚、虐待死した)の失脚後の国家主席廃止の反対、当時中国は二面戦争の防止のためアメリカ合衆国との友好化を推進したがそれに反対したなどで毛沢東に警戒され、1971年、息子である林立果が毛沢東暗殺によるクーデターを企てるが失敗、当時中華人民共和国と対立関係にあったソビエト連邦に亡命しようとするも、途中のモンゴルで飛行機の墜落により死亡(これはソ連側に頭部を治療した際カルテが残っておりそれで確認可能だった)した。いわゆる林彪事件参照であった。
この人物の死後、おそらく隠蔽工作などが完了した1973年に党籍を剥奪された。
その後、文化大革命の責任を欠席裁判の形で取らされている。
そのほかいろいろ
- この人物の主な戦績は平型関の戦闘(1937年に発生した太原作戦における戦闘、第5師団の輜重部隊を全滅させた)があげられる。
- 頭部の負傷の治療の際モルヒネ(一部の芥子より抽出される麻薬である阿片より抽出される物質で、鎮痛剤に用いられる、痛みのない状態で使用すると依存性を発揮するといわれる)中毒にかかっており、それは1950年代はじめまで継続したと推測される
- モルヒネ中毒ののち統合失調症にかかった節があり、水が飲めなくなり危うく死に掛けた
- この人物に関しては証言等ではそれまでの常識と異なる意見も存在する、そのため例えばソ連のスパイの可能性も否定できない
- 1950年代後半の中国とソ連はフルシチョフのスターリン批判をきっかけとして関係が悪化していた
関連項目
エフゲニー・プリゴジン: 民間軍事会社ワグネルの代表であり、主君への反乱を起こしたあとに飛行機の墜落により死亡する経緯が類似している。