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南北戦争

なんぼくせんそう

南北戦争とは、1861 - 1865年にかけて、アメリカ合衆国とアメリカ連合国の間に発生した内戦である。
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概要編集

1861 - 1865年までの5年の間、奴隷制維持と自由貿易を主張するアメリカ南部諸州(アメリカ連合国)と、奴隷制廃止と保護貿易を主張するアメリカ北部諸州(アメリカ合衆国)の間で発生した内戦。ちなみに内戦の事を英語で「Civil War」と言うのだが、米国では内戦があったのは後にも先にもこれっきりなので、米国内では定冠詞を付けて、The Civil Warなどと呼ばれる。(世界史などで他の内戦と区別する時はAmerican Civil Warとも表記する)


1861年のサムター要塞の戦いで始まり、当初は優秀な指揮官を数多く抱えた南軍が優勢を保ち、一時は北部首都ワシントンD.C.まで迫った。しかし、次第に国力が勝る北軍に軍配が傾き、1863年のビックスバーグの戦い及びゲティスバーグの戦いを転機に北軍の優勢が決定的な物となる。そして1865年に南軍首都リッチモンド防衛部隊であった北バージニア軍司令官にして南軍総司令官、ロバート・E・リーが北軍に対して降伏。北部=現在のアメリカ合衆国が勝利して南北戦争は終結した。


戦死者数は南北合わせて約62万人。これは、現在までに米国が参戦した全戦争の中で最多である



背景編集

南北戦争の原因について辿るには、少なくとも時計の針を19世紀初頭まで巻き戻さなければならない。

特にポイントとなる出来事は、①ルイジアナ買収と米英戦争②対メキシコ戦争の2つである。


ナポレオン戦争と米国編集

この時のヨーロッパはナポレオン戦争真っ最中であり、米国は莫大な戦費により財政難に喘ぐフランスから仏領ルイジアナを購入(ルイジアナ買収

同時に大陸での戦争にかかりっきりで余力のないイギリスに火事場泥棒的に宣戦し英領カナダへ侵攻したが、英加連合軍の必死の抵抗により攻勢は頓挫。結果的に何も得られるものが無いまま停戦する事になった(米英戦争)。


実は北部自由州と南部奴隷州対立は独立から間もない18世紀の終わり頃から存在していたが、当時の州の数は南北でほぼ同数であったため、州の代理人である上院での勢力は拮抗していた。しかし、ルイジアナ買収によって州の数が一気に増加。各州は準州段階を経て州へと昇格するが、この新しい州が奴隷州となるか自由州となるかが議会での大きな争点となっていった。

また、米英戦争により英国製の工業製品を輸入できなくなったアメリカでは、麦やトウモロコシなどを栽培する通常農業や、南部の綿花を海外へ輸出する貿易業が主な産業であった北部で工業が発展し始め、アメリカでも屈指の工業地帯へと成長していった。これにより北部では綿花の収穫や家事手伝いといった単純作業しか出来ない奴隷よりも工業機械の操作に精通した通常の労働者の需要が高まり、北部で反奴隷制が主張される一因ともなった。


テキサスとカリフォルニア、2つの共和国編集

ナポレオン戦争の終結から約20年後の1836年。当時メキシコ共和国領土であったテキサス分離独立を目論んだ米国人入植者(テクシャン)がテキサス共和国を建国。現在でも有名なアラモの戦いなどを経て独立を勝ち取り、それから9年後の1845年にアメリカに併合された。

その翌年、米国の「侵略的」行動に以前から憤慨してしたメキシコとの間に米墨戦争が勃発。その最中にまたもやアメリカ人入植者によってカリフォルニア共和国が建国される。しかし、太平洋地域への貿易港を欲していた米国進撃により、僅か3週間でアメリカ合衆国に併合された。


テキサスカリフォルニア、新たに増えた二つの広大で豊かな領土は再び論争の種となり、1850年協定{1}によって最終的にはテキサスは奴隷州に、カリフォルニアは自由州となる。

この事例に加え、1820年に成立したミズーリ妥協{2}や1850年協定の4年後に制定されたカンザス・ネブラスカ法{3}といった政治上の混乱から党内で意見が分裂し、解散に至った連邦党、ホイッグ党などの当時の大政党の一部が、奴隷制反対を掲げて新たに発足した共和党に合流。1860年、ついに同党出身のエイブラハム・リンカーンが大統領に当選。

これにより、これまで米国上院において辛うじて均衡を保っていた奴隷制維持派の少数派化は確実となり、遂に1860年12月、サウスカロライナ州が合衆国からの脱退を宣言、翌年2月までにミシシッピフロリダアラバマジョージア・ルイジアナ州が合衆国を離脱した。


  • {1}カリフォルニア・テキサスにおける奴隷制の扱い、ワシントンDCでの奴隷制の禁止などを定めた5つの法律の総称
  • {2}ミズーリ州を除く北緯36度30分以北の西部諸準州が州となる際、奴隷制を禁じる協定
  • {3}前記の協定に反し、奴隷州となるか自由州となるかは準州民が独自に決めると定めた法律

アメリカ連合国成立と開戦編集

1861年2月4日、南部6州がアラバマ州の州都モンゴメリーでミシシッピ選出の元合衆国上院議員、ジェファーソン・デイビスを大統領とする「アメリカ連合国(CSA)」の結成を宣言する。

翌3月4日リンカーンが正式に大統領に就任し、南部諸州に合衆国への復帰を呼びかけるも無視され、同月テキサス州がCSAに参加し、緊張は頂点に達した。


そして4月12日、サウスカロライナ州チャールストンにある、南部に残された数少ない合衆国軍拠点サムター要塞に連合国軍が攻撃を開始、ここに米国人同士が血で血を洗う内戦、「南北戦争」が開戦したのである。


開戦時の状況編集

端的に行ってしまえば、合衆国(以下北部若しくは北軍と表記)も連合国(以下南部または南軍と表記)も戦争準備が整っていなかった。

北部陸軍は兵力1万6千、海軍も船舶42隻という状態であったが、南部は国も軍も一から作らなければならない状態であり、北部政府財産及び施設接収によって体制をと問えなければならない状況にあった。


北部が南部に対して優位な点は以下の通りである。

・命令系統が連邦政府から各州政府に下るという形でハッキリしている。一方南部は各州の寄り合い所帯だけあって、デイビス大統領からの命令に横槍が入ることが多々あった。

・当時の米国は全33州で構成されており、そのうち7州が離脱したとはいえ残りの26州は開戦時点では北部に残っていたため、兵役適齢(徴兵される年齢、当時は18歳から35歳)の人口が南部100万人強に対し、北部は約400万人おり優位に立っていた。

・工業力では北部が優位に立っており、特に補給に不可欠な鉄道網が南部の2倍あり、補給面では圧倒的といって良い状況にあった。


しかし、結果からいえば、上記の様に丸4年かけてようやく北軍が勝利した格好になっている。なぜ国力に劣る南軍が最終的に敗北したとはいえここまで善戦出来たのかといえば、一重に質の面で優っていたからである。


・南軍結成の際にその中核となったのは、元合衆国軍に所属していた士官達であった。彼らは北軍に残留した士官達よりも能力的に高いと見なされており、事実緒戦において南軍が優勢に立てたのは彼らの功績によるものが大きかった。

・また彼らを南軍に参加させたのは、そこが彼らの故郷であったためである。彼らは「アメリカ」という国家よりも、故郷を守るために戦うことを選んでおり、そのため軍の士気も非常に高かった。

一方の北軍は「ほっといても合衆国に戻って来るであろう」と高をくくっており(いってしまえば舐めプしており)、緊張感がなかった。


1861年―アマチュアの戦争編集

アナコンダ・プラン編集

先述の通り、開戦時点では双方一切戦争への備えが出来ていなかった。そのため、両軍は開戦から約3 カ月間を戦争計画策定、そして軍動員と訓練に費やし、大きな衝突はなかった。


合衆国側では、リンカーンが当時合衆国陸軍総司令官であったウィンフィールド・スコットの助言を得て、戦争遂行の基本戦略を策定した。

その内容は、

①首都侵攻による短期決戦を志向すると予想される叛乱軍(南軍)活動を防衛軍を編成し防ぎつつ、

②米国周辺海域で海上封鎖を行い、経済活動を水運に依存する(鉄道網が未発達かつ収入の大半を綿花輸出による外貨獲得で賄っているため)南部連合を経済的に締め上げ、

③ミシシッピ川の流通を合衆国が支配し南部連合を地理的に東西に分裂させる事で物流を破壊し、南部連合の自壊を狙う。

という壮大なものであった。

しかし、当時の世論は軍隊を派遣して即座に鎮圧すべきであるという意見が多数を占めており、米英戦争からの古豪であるスコット将軍の策にしては余りに迂遠過ぎる、という理由で「アナコンダ・プラン」{4}と揶揄される結果となった。しかし、リンカーンの戦争遂行は終始一貫してこのアナコンダ・プランに基づいて行われており、結果的にスコットの見立てが正しいことが証明されている。


南部連合側においては、スコットの予想通り首都侵攻、ないしは合衆国軍の主力を撃破することにより諸外国の支援・国家承認を得て独立を達成するという戦略を取ったが、南部連合が「反合衆国」連合であるという理由により、その遂行は度々妨げられた。

元来、合衆国における中央政府――連邦政府の存在は独立した主権を有する州調停者・相談役といった地位にあり(国連事務総局の様な役割と考えると分かりやすい)、州主権を犯して強権を振るうことは困難な状態にあった。しかし、合衆国に「加盟」する州が増加したことで南北対立が激化するに至って段階的に連邦政府の権限は強化された。この連邦政府と州政府、どちらの主権が優越するかという州権問題も、南部連合が合衆国から離脱する一因であった。

そのため反合衆国を旗印に立上がった南部連合において、中央政府が果たせる役割は限りなく小さく、また南部連合大統領であるデーヴィスが非社交的で偏屈な性質を有する人物であることも相まって、南部連合は加盟州がバラバラに合衆国と敵対している様な状態に陥ることとなり、終戦までそれは改善されることがなかった。それは、現在でもその名を知られるロバート・E・リーの肩書きが終戦直前まで一野戦軍である北バージニア軍司令官でしかなかったという事実が如実に示している。リーはあくまでワシントン攻略・北軍のポトマック軍撃滅を担う部隊の長に過ぎず、巷でイメージされている様な南部連合軍が展開するあらゆる作戦を管理する総司令官に就任するのは、終戦僅か2ヶ月前のことであった。


  • {4}大蛇がゆっくりと獲物を絞め殺すという意味合いで、日本語でいえば牛歩戦術の様な意味合いがあった。

”武装した暴徒の群れ”編集

そして南部連合の侵攻に備える首都防衛軍を組織するべく、リンカーンは各州に向けて90日間の期限付きで義勇兵募集の布告を発布し、ワシントンDCには全国から7万5千人の義勇兵が集まった。


しかし、この義勇兵には大きな問題があった。そのほとんどが…いや、ほぼ全員がまともな軍事訓練を受けていなかったのである。

その理由は、合衆国軍は大規模な常備軍が必要ない組織であったから、という点に起因する。近隣に強大な敵国が存在せず、また欧州列強の様な植民地を持たない米国では、軍の主な仮想敵といえば、開拓地と交易路を脅かす先住民部族位のものであった。そのため、開拓地のあちこちに砦を築き、中隊や大隊単位に分派された部隊が駐屯し、先住民の襲撃に警戒するというのが平時における正規軍の主な仕事であった。

故に1860年当時で人口約2,500万人を擁し、人口的には欧州列強と肩を並べる国家となっていたアメリカ合衆国であったが、陸軍の定数はわずか約1万6千人。同時代の欧州では平時であっても10万人規模の常備軍を維持し、戦時には30万から50万人を動員可能な体制が整えられていたのに対して、大きな差がある。つまり、一般市民が軍事的な素養を身に着ける機会に乏しく、また彼ら義勇兵に教育を施す側である正規軍も、軍隊同士がぶつかり合う正規戦の経験はわずかで、訓練も不足していたのである。


でも、独立戦争では一般市民がミニットマンとして戦っていたじゃないか!と思うかもしれないが、そもそもミニットマンという制度は、独立戦争当時の13州が開拓地であり、住猛獣や先住民と戦い、日々の糧を得るために狩りで銃を扱う開拓民の割合が多かった時代であるからこそ成り立っていた制度なのである。高度に発達し安全の保障された都市部や穀倉地帯で、工場や農場で労働に勤しむ人々に、憲法の修正条項を馬鹿正直に守って(しかも当時もはや旧式兵器であった)フリントロック銃を所有し訓練する暇も、必要性もなかったのである。


そのため、義勇兵招集の報を聞いて駆け付けた”義勇軍”達であったが、彼らの軍服・装備共に一切統一されておらず、どころか軍服すら用意せずに私服に銃のみ担いで来た様な部隊までいる始末であった。

老齢で前線での陣頭指揮が困難なスコットに代わって首都防衛部隊「北東バージニア軍」指揮官に任命され、准将に昇任したアービン・マクドウェルは、叛乱軍を打倒する前に自壊しかねないこの「群衆」を、どうにか使い物になる様に鍛え上げるという難題に挑むこととなる。


一方その頃、南部連合においても軍編制が進んでいた。中核となる正規軍が存在しないというハンデを持ちながらも、順調に編制を進めて行った。

何故なら、開戦時に正規軍に所属していた貴重な将校達はその多くが南部出身で、彼らのほぼ全員が郷里を護るべく職を辞し帰郷していたからである。

南部上流階級は英国植民地時代に入植した英国貴族や大地主を祖先に持つ人々で、彼らはノブレス・オブリージュの一環として尚武の気風を貴んでいた。そのため、陸軍士官学校は南部出身者の割合が高く、また小作農や使用人などの中流・下層階級にも乗馬や射撃の心得がある者が多かった。

そして何より、南部連合兵士達には「侵略者から故郷を防衛する」という明確な目標があったので、非常に戦意旺盛で、北部が先述の通り7万5千の兵士を招集したのに対して、故郷の危機に駆け付けた南部男児の数は20万人にも及んだという。とはいえ、これだけの数の兵士を――ちなみに、独立戦争で戦った大陸軍の総数が25万人である――独立を宣言してから一ヵ月と経っていない未熟な政府が管理できるはずもなく、デーヴィスは彼らを無碍に追い返してしまい、民衆の不興を買ってしまう結果となってしまった。

とはいえ、熱意に溢れ射撃や乗馬に優れているとはいえど行進や集団行動といった当時の軍隊に必要な軍事的な教育が足りていないのは南軍も同様で、それに加えて軍服。靴・銃などの軍需品は北軍以上に不揃い、あるいは欠乏していたため、結局のところ南北両軍が戦闘に耐え得る練度の軍を育成するために時間を使う結果となった。


そして、第1次ブルランの戦いが勃発する1861年7月までに、南北の両軍は東部戦域にて4つの野戦軍を編成した。


①北東バージニア軍37,000名(アービン・マクドウェル准将指揮)

先述の通り首都防衛兼南部侵攻作戦の主攻を担う部隊であり、ウィンフィールド・スコットの信任篤いアービン・マクドウェルが准将へ特進の上司令官に任命された。


②北部シェナンドア軍18,000名(ロバート・パターソン少将指揮)

交通の要衝であるハーパーズ・フェリーを確保するために編制された部隊で、スコットに次ぐ軍歴の持ち主であり、開戦当時は現役を退いていた宿将ロバート・パターソンが指揮を執った。


③ポトマック軍22,000名(P・G・T・ボーレガード准将指揮)

北東バージニア軍に対応するため編制された部隊を糾合して編成された。司令官にはサムタ―要塞攻撃の指揮官を務めたP・G・T・ボーレガードが司令官に指名された。


④南部シェナンドア軍12,000名(ジョセフ・ジョンストン准将指揮)

北軍同様にハーパーズ・フェリー及びシェナンドア渓谷確保を狙う部隊をバージニア民兵隊の指揮官を務めていたジョセフ・ジョンストン准将が糾合し、そのまま司令官に就任した。



第1次ブルランの戦い編集

少々の小競り合いを除けば、一切軍の動きが無いまま開戦から3ヶ月が経過するに至って、マクドウェルは上層部―――つまりリンカーンから軍を出撃させ、南軍に対して何らかの軍事的行動を起こす様に圧力を受けていた。開戦時に招集した義勇兵除隊日が、直ぐそこまで迫っていたからである。

動員解除までの3ヶ月間をただ訓練をして何もせず手をこまねいていたと有権者に判断されれば、就任早々にリンカーン政権は支持を失い瓦解するのは必至。例え訓練不足の急ごしらえの軍隊であっても行動を起こす必要があった。

そして、マクドウェルは部隊の練度に不安を抱えながらも出撃を決意。その目的地はブルラン川のほとりに位置する南部交通要衝であり、南部シェナンドア軍とポトマック軍を鉄道で繋ぐ結節点であるマナサス・ジャンクション駅であった。

出撃から明後日、1861年7月18日未明。バージニア州センターヴィルに到着した北軍の斥候と南軍哨戒部隊がブルラン川のブラックバーン浅瀬で接触。第1次ブルランの戦い(南軍呼称:第一次マナサスの戦い)の火蓋が切られた。


衝突まで編集

時計の針はブラックバーン浅瀬の衝突から2日程巻き戻り、舞台はシェナンドア渓谷付近に移る。

前述の通り南北のシェナンドア軍はハーパーズ・フェリーを含むシェナンドア地域を占領するために編成された野戦軍であったが、鉄道を利用することでマナサス・ジャンクション駅付近で衝突するであろう部隊の応援に向かうことも可能であった。

マクダウェルの部隊を前進させるに当たって、この南部シェナンドア軍が来援として駆け付けボーレガードのポトマック軍に合流してしまうことは大きな脅威であった。そのため、北部シェナンドア軍のパターソンは積極的な攻勢によってジョンストンの北部シェナンドア軍を釘付けにするよう命令を受け、南部シェナンドア軍陣地に向けて前進していた。しかし、敵軍戦力を過大に見積もり、自軍の倍の兵数が存在していると誤認した(実際は寧ろジョンストン軍の方が少数である)パターソンは敵を目前にして反転。陸軍省に増援を要請するためハーパーズ・フェリーに舞い戻ってしまった。

この行動の結果としてボーレガードから送られた接敵電報を受信したジョンストンは一切妨害を受けることなくマナサスへと増援に向かってしまう結果となった。


迂回と突破編集

パターソンの失態によりボーレガードとジョンストンの合流を許してしまったことを斥候の情報により知ったマクドウェルであったが、この機会を逃せば現在保有する戦力は動員解除、次の攻勢準備に半年は必要なことを考えれば、ここで軍を退く決断は出来なかった。7月20日夜、彼は師団長と旅団長達を自らの天幕に呼び寄せ、南軍と対決する意志を固めた。

マクドウェル作戦は当時の野戦における王道戦術…即ち、敵側面迂回と突破であった。麾下部隊を戦線中央のストーン橋を確保し、同時に左翼のブラックバーン浅瀬に示威攻撃を仕掛け南軍主力を拘束するテイラー師団と、右翼から大きく迂回し南軍の左翼から打撃を加えるハンター・ハインツェルマンの両師団、そして予備部隊であるマイルズ師団の3隊に分割し、テイラー師団が南軍を抑える間に迂回部隊が側面を叩き、後方予備部隊で不測の事態に備えるという基本に忠実な陣容であった。当時の軍事教育を受けた人物であれば当たり前に思い付く戦術であったが、彼の戦術に瑕疵があるとすれば、彼の軍隊がその基本的な戦術さえ覚束ない、素人の域を最終的に抜け出せなかった所にあるであろう。

兵士は勿論のこと、司令官・マクドウェルすら実戦で連隊以上の兵を指揮した経験がなく、師団長・旅団長に任命された将校達の中には、軍事経験がなく政治的コネで任官した人物――悪名高い政治家将軍すらいる有様であった{5}。

テイラー師団は南軍抵抗を排除し切れず橋を確保するのに難航し、ハンター・ハインツェルマン師団は接敵の危険を避けるため遠回りし過ぎた結果、夜通し行軍したにもかかわらず戦場への到着が大幅に遅延。そしてマクドウェルは彼らの行動を統制出来なかった。


一方で、その状況は南部においても大差なかった。

ボーレガードと合流したジョンストンはボーレガードより先任の将官であったが、ボーレガードが周辺の地理に通暁していることを認め彼に指揮権を譲渡した。そのため指揮系統混乱こそ避けられたものの、ボーレガードは初めて務めた軍司令官職での初陣で緊張し切っておりその采配は混乱仕切っていた。

ボーレガードもマクドウェル同様迂回・突破戦術――ブラックバーンの浅瀬を突破し北軍左翼を脅かす――を試みていたが、曖昧で支離滅裂な命令を隷下部隊が理解出来ず、また彼を補佐するはずの幕僚たちの手際も悪く、21日午前中には作戦を中止せざるを得なかった。

しかし、側面迂回を中止した直後、戦線左翼からの砲声が激しくなるのを感じ取ったボーレガードは先程までの混乱振りはどこへやら、即座に左翼救援を決断すると馬を走らせた。


  • {5}自らの選挙区から兵士を提供する代わりに将軍階級を提供された実戦経験が一切ない将軍

”石壁”ジャクソン編集

ポトマック軍本隊がボーレガードにより混乱し切っていた頃、テイラー師団とストーン石橋攻防戦を繰り広げていたエヴァンズ大佐率いる1個旅団は、戦線後方の丘で偵察を行っていた信号部隊から「北軍別動隊が側面に回っている」という手旗信号による伝文を受け取り、急ぎ部隊を北上させていた。ビー・バートウ両旅団長支援も受け、戦線左翼の小高い丘、マシューズ・ヒルに布陣し、別動隊――ハンター・ハインツェルマン師団攻撃を待ち構えていた。

午前10時。夜通し行軍を行っていた北軍別動隊は遂に南軍側面を捕捉、エヴァンズら3個旅団との戦闘が始まった。

有利な地形に布陣した南軍に吶喊して行く形とはなったものの、別動隊は2個師団1万2千人という数の差を活かして戦闘を終始優位に進め、またストーン石橋の守りが手薄になったのに気付いたテイラー師団が浅瀬を利用して強行突破に成功。背後からウィリアム・T・シャーマン率いる2個旅団が襲い掛かるに至って、マシューズ・ヒルの南軍戦線は崩壊。算を乱して壊走を始め、危うく全軍総崩れの危機に陥ったが、ヘンリーハウス・ヒルに布陣していたトーマス・ジャクソン准将のバージニア旅団(所属連隊がすべてバージニア州義勇兵であった事からこの俗称が付いた)と合流したことで士気を持ち直すことが出来た。

トーマス・ジャクソンは合衆国正規軍の元将校で開戦当時はバージニア軍学校(州立の士官学校のような物。略称VMI)で教官を務めていたが開戦に際してバージニア州義勇兵に志願し、准将の待遇でシェナンドア軍にて一個旅団の指揮を任せられた人物であった。

彼の旅団は混迷を極めるヘンリーハウス・ヒルで唯一統制を保っている部隊で、彼が悠然と馬上に立つのを見てビーが叫んだのが、以下の一言である。


「見よ!ジャクソンが石壁の如く立っているぞ!」


この言葉により、後に”石壁”ジャクソンと渾名される様になる彼の部隊を中核にヘンリーハウス・ヒルへ再布陣した南軍は、勢いに乗る北軍を再度迎撃した。

当初はやはり数に勝る北軍が南軍を押し込んでいたが、21日夕刻が近付くに連れて、北軍の攻勢は限界点に達する。午前2時から14時間以上連続で作戦行動に参加していて、北軍兵士達は完全に疲労困憊していたのである。ブラックバーン浅瀬から応援に駆け付けたジョンストン・ボーレガードの本隊が到着するに至って北軍の戦線は崩壊に至る。


この戦闘は最後に残っていたのが南軍であったという点で南軍勝利と判断されたが、南軍も疲労限界に達しており、壊走する北軍を追撃する余裕がない程に混乱していたのである。

辛うじて勝者を名乗ることが出来たジョンストン・ボーレガード軍は、その場で野営準備に入った。


そして、南北両軍は翌年春まで本格的な野戦軍を編成するために大規模な戦闘を控える様になり、ポトマック河畔は奇妙な緊張状態が続くこととなった。ここに至ってようやくこの戦争は一時的な内紛では収まらない、本格的な戦争に発展したという現実を米国全体が認識したのである。


西部戦域編集

南北戦争といえば上記の様な東部戦域―――東部戦線と呼ばれることもあるが、本稿では東部“戦域”の呼称を採用する―――での戦いばかりが注目されがちであるが、南北戦争の戦略的に最重要の存在であったのは、常にミシシッピ川以西を主戦場とする西部戦域であった


西部戦域は前述のアナコンダ・プランを達成するためミシシッピ河川域を確保することと、同時に合衆国に残留し南部連合には加盟しないが州内で奴隷制を維持していた州―――「境界州」を南北の両政府が自らの陣営に引入れることの2つが主な戦略目標であった。

しかし、戦略的に重要であったとはいえ当時から第2戦線的な扱いを受けていたのは事実であり、また戦場が広大で東部戦域に比べて大軍衝突が少なく、精々旅団規模の小競り合いが大半であったこともあり現在に至るもその価値が正しく認識されているとは言い難い。


しかし、後に北軍総司令官に任ぜられこの戦争を勝利に導く偉大な軍人の道程は、この西部戦線から始まったのである。彼の名はユリシーズ・S・グラント。陸軍士官学校卒で米墨戦争に従軍しながらも軍を辞め、その後は定職にも就かず昼間から痛飲し泥酔する生活から一転、イリノイ州義勇歩兵連隊の隊長として復職を果たした、飲んだくれのアル中であった。


1862年―軍組織化編集



1863年―南部の最高到達点編集



1864年―グラントの南部侵攻編集



1865年―アポマトックス編集


逸話編集

奴隷制について編集

南北戦争以前のアメリカ連邦時代における最初の6人の大統領は、全員南部のヴァージニア州出身で、「ヴァージニア王朝」とも呼ばれており、「建国の父」と呼ばれている初代大統領ジョージ・ワシントンや独立宣言文作者である第3代大統領・トーマス・ジェファーソンは元々大農場主で、奴隷であった黒人女性の愛人がおり子供まで生まれていたという。


逆に北部はというと、確かに黒人奴隷はいなかったが、かといって彼らに自由があり差別がなかった訳ではなかった

例を挙げると選挙における黒人投票率は0%であり、その理由は投票所に黒人が来ようものなら白人が集団でリンチして追返してしまっていたからであり、警察裁判所も見て見ぬふりを決め込んでいたという。


戦後、南部各州は北部による軍事占領下に置かれ、『奴隷解放宣言』により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放され、その下で黒人に投票権が与えられた。

しかし、1877年以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、今度はその反動で南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別は再度強化された。

黒人に対する差別や偏見はKKKなどの活動を生み出す土壌となり、この人種差別状況が改善されるのは、1960年代のアフリカ系米国人公民権運動を待たなければならなかった。


日本との関わり編集

一見日本とは関係ないように見えるが、実は日本の歴史にも間接的にだが大きく関わっている。


時代を見れば分かる通り、日本では江戸時代の末期、幕末であり、南北戦争で使われた、もしくは両軍が武器製造メーカーに発注して余った兵器が日本に流れ込み(当時、大量の兵器需要が求められるような戦争をしていたのは日本ぐらいで、中古兵器販売のメインターゲットとなった)、薩長幕府問わず銃火器の近代化が推し進められ、戊辰戦争で大きく活用されている。また、ヨーロッパ各国も余剰の旧式兵器の処分や逆に新兵器の実地試験が出来る場を求めており、戊辰戦争ではおよそ当時流通していた兵器(特に小火器)の殆どを見る事が出来たという。

※余談だが、戊辰戦争の英語表記として『Japanese Civil War』が用いられることもある。


また、最も早くに日本と不平等条約(日米和親条約)を結んだのはアメリカであったが、その後の南北戦争で外交どころではなくなった。そのため、日本への関与はイギリスフランスに後れをとることとなった。


関連項目編集

南北戦争に関連する人物編集

北部(アメリカ合衆国編集

エイブラハム・リンカーン ユリシーズ・S・グラント ウィリアム・シャーマン

ジョージ・B・マクレラン ジョージ・A・カスター フレデリック・ダグラス


南部(アメリカ連合国編集

ジェファーソン・デイヴィス ロバート・E・リー ストーンウォール・ジャクソン

ジョージ・ピケット ジェブ・スチュアート


南北戦争に関連する兵器編集

ミニエー銃 ナポレオン砲 ガトリング砲

スペンサー銃 ヘンリー銃


南北戦争を扱った作品編集

ゲティスバーグ グローリー ゴッド&ジェネラル


その他編集

戊辰戦争…南北戦争の中古武器が大量に輸出されて使用された

麻雀…「南北戦争」というアメリカ麻雀が発祥のローカル役がある。役満。字牌の南・北で刻子を作り、数牌のいずれかで1861と1865を作る役。麻雀の基本から外れた形であるため、採用される事は稀。

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