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琉球王国

りゅうきゅうおうこく

現在の沖縄県と奄美群島を支配した政権で、正式名は「琉球國」。尚一族が治めていた。
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概要編集

1429年より1879年まで東アジアの琉球列島(現在の沖縄県鹿児島県奄美群島)を支配した政権


時代区分としては王朝で分ける場合には「第一尚氏王統」と「第二尚氏王統」、対外的な地位に注目する場合には薩摩島津氏による属国化の前後で2分する。


先史編集

17世紀に王朝の正当性確立も兼ねて羽地朝秀がまとめた正史『中山世鑑』においては、鎌倉幕府を開いた源頼朝とその弟である源義経の叔父に当たる源氏の武士で、保元の乱で敗れ伊豆に流刑となった後に自決したとされている源為朝が、死んでおらず琉球へ逃げ延びて琉球を開拓し、その始祖となったとされている(彼が運を天を任せて伊豆から辿り着いたとされる港は運天港沖縄島北部と伝えられる)。初代琉球王・舜天は彼の息子あるいは彼自身であり、琉球王族と琉球の民は源氏武士の子孫たちとされている。なお、この伝説を題材にした江戸時代のベストセラー小説が曲亭馬琴椿説弓張月』である。


12世紀ごろ(ちょうど為朝が伊豆で自決したとされる時期と重なる)から、沖縄島では稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行、それに伴い農業に適した地に移動するようになった。また、豪族( 按司と呼ぶ )が石垣で囲まれた( グスクと呼ぶ )を築き小国家を形成したとされる。なお、伝説の上では天孫氏舜天王統英祖王統などが存在したとされる。14世紀においては、これらの小国家が次第に統合され、察度王統が治める中山王国、帕尼芝王統が治める北部の北山王国、大里王統が治める南部の南山王国の3つの国および諸勢力が鎬を削る状況となった。


沖縄諸島の統一編集

15世紀初めごろ、中山王国の按司であった尚巴志武力によるクーデターにより察度王統を滅亡させ、父親を王位につけ、遷都( 浦添から首里へ )を行う。その後北山王国を討伐し、さらに父親の死後南山王国を討伐。これにより沖縄が統一された。王国は交易により栄えたものの、王族や按司の勢力が強く、内乱がたびたび発生している。その後北方の奄美群島にも手を伸ばすものの、特に喜界島の無理な征伐により王国の力は弱まった。


1462年、重臣であり、失脚して隠棲していた金丸王位簒奪(ただしこれは金丸の独断でなく、他の有力者の後押しが大きい)を起こし、第二尚氏王統に移行。この政権ではそれまで地方にあった按司を首里に移住および集住させることにより、その力をそぐことに成功している。


当時中国が海禁政策(管理貿易)を取っていたことを利用し、の册封国(従属国の扱いだが形式上であり出先機関は置かれていない)として日本中国東南アジアの貿易拠点の役割を担い繁栄する(いわゆる万国津梁)。首里の外港たる那覇は「那覇の浮島」と呼ばれる港町として避けるが、しかし、16世紀末には、ポルトガルの影響により東南アジアの貿易が衰退、さらに中国沿岸地域での密貿易や中国・日本間の直接貿易の広まりなどで苦しくなる。ただし中国との貿易は継続した。


また、南方の先島諸島( 宮古島等を含む宮古列島石垣島西表島を含む八重山列島尖閣諸島などの総称 )にも積極的に征伐に入り、16世紀初めにはほぼ勢力に収めた。また、北方の奄美群島においても支配を強化している。


島津の琉球入り編集

日本側において、琉球との窓口となったのはもっぱら薩摩、特に島津氏であった。かつて琉球薩摩それぞれのまとまりで言えば、国衆の統制に苦慮していた島津氏薩摩に対して琉球の方が上であり、特に尚真王の時代は黄金期で、上述したように奄美・先島および与那国から種子島のすぐ南まで領土を広げていた。しかし、戦国時代の後期における島津氏の九州での勢力確立、さらに1580年代以降の日本列島の内乱状態(戦国時代)の終息に伴い徐々に力を付け始めていったことから、交易の不活性化にあえぐ琉球との関係が次第に逆転していくこととなる。

1559年に冊封使歓待のために島津の機嫌をとる必要から、慶賀すべき行事の為に作られた非武装船『あや船』を島津貴久への慶賀の為に送ったが、これを機に島津は九州制覇のため威信を高めるのに役立つとして度々に呼びつけるようになり、関係がぎくしゃくし始める。

1571年、貴久の後任として島津義久が当主となってからもあや船は要請され続けたが、この頃には薩摩と琉球の力関係は逆転しており、あや船要請の決定権は既に薩摩に移行し始め、このあや船の件が琉球遠征の大義名分の一つとなっていく。


豊臣秀吉の九州平定により九州制覇の夢が破れ、さらに徳川政権下で本国は安堵されたとはいえ財政の立て直しが急務となった薩摩は琉球への出兵を窺うようになり、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府の成立から六年後の1609年2月に、徳川家康の許しを得て


「創立当初の徳川幕府に贈り物を献上するように勧めたが、それに応じなかった」

「琉球船漂着に対し、乗員を保護し、薩摩を通じて帰国させたが礼を欠いた」


といった大義名分により、約3000の兵を率いて琉球侵攻(琉球征伐)に乗り出し、運天港から上陸後に首里へ攻め入った。琉球側も応戦するが、戦国乱世を戦い抜いた百戦錬磨の薩摩兵には歯が立たず、2ヶ月で首里城は占領され当時の琉球王・尚寧王は薩摩へ連行され島津家久に伴われる。その後に駿府城で徳川家康と、江戸城で徳川秀忠と謁見した。しかしこの際の尚寧王の扱いは他の敗軍の将達とは異なり別格で、天皇が乗る玉の輿である『鳳輦(屋形の上に金銅の鳳凰が飾り付けられた輿)』に乗せられ、非常に丁重に扱われた。


1611年、琉球王と三司官(琉球王国国政実務上の最高官)はあらかじめ用意された三ヵ条からなる宣言書に同意と署名を求められ、続く十五ヵ条からなる訓戒・説論『掟十五条』に従うことが求められた。


掟十五条

一、中国よりいかなる物資、物品といえども、まず薩摩藩主の許可なしに輸入してはならない。

二、いかに名声のある者でも、その家柄のみにより報酬を与えるのではなく、公共の奉仕に功ある者に与えること。

三、領主の側室に公費を以って恩情を施してはならない。

四、個人による従僕の所有は認められない。

五、寺社の建立は過度にならぬこと。

六、商人は薩摩の許可状なくして、那覇より商品の搬出、搬入の商行為をしてはならぬ。

七、いかなる琉球人といえども奴婢として本土に連行してはならぬ。

八、全ての税及び関税の類は本土の権威ある者の定める規定、規約に則ってのみ課すことができる。

九、国王は三司官以外の者に島の施政を任してはならない。

一〇、個人の意思に反し売買を強制してはならない。

一一、口論や争いごとを禁じる。

一二、官吏が商人や農民に定められた諸役以外に無理非道を申しつけた場合は、鹿児島の薩摩当局に報告すること。

一三、琉球より外国へはいかなる商船といえども出帆することを禁じる

一四、京判による標準度量衡以外の基準を用いてはならない。

一五、賭博やそれに類する悪習慣を禁じる。


これらは薩摩が琉球の貿易を独占するためのものであり、これにより琉球は薩摩の附庸国(実質上の属国)とされ、さらに奄美群島が琉球の支配から切り離される(奄美にはその後も王府から役人が派遣されていたが、これは明および、あるいは朝鮮向けの表向きなものである)。


これ以降の琉球王国は、一方において中国(清)との朝貢・貿易を継続し、諸島内における内政をつかさどる「国」としての面と、薩摩藩の統制下および演出された江戸への慶賀使の派遣などにおいて見せる、江戸幕府体制下の一部である「属国」としての両面を持つようになる。


薩摩の支配下で存続した王国では、羽地朝秀らの主導により各種改革が行われた。王府を中心とした統治機構の再整備のような行政改革や、正史編纂と言った文化事業に加え、サトウキビ栽培や農地整備などの産業振興が取り組まれた。この時代に空手琉歌(短詩型の叙情歌謡、一般的には8・8・8・6の30音からなる形)、また冊封使を迎える芸能として成立した組踊りなどの琉球文化が成熟した。現在多くの人がイメージする伝統的な沖縄の文化は、この頃に形成されたものである。


ただし、王府の権威を笠に着た士族の横暴も多く伝えられているほか、薩摩藩の財政難のしわ寄せにより、琉球の庶民に圧迫を強いた側面もある。奄美諸島での薩摩藩による砂糖強制栽培、およびそれに伴う飢餓は現在でも知られているほか、王府は先島諸島などで人頭税を敷き、貧しい人や病人からも過酷に税を取り立てた。また、対中国貿易は継続したものの、薩摩藩による密貿易も盛んに行われた。


ちなみに『琉球王国』という名称が使われ始めたのはこの頃からで、この名称は幕府と薩摩が琉球を通して明国清国と貿易するために、諸外国へは琉球が独立国であるかのように偽装するための政治的な宣伝(プロパガンダ)として残した飾りの名称である(これが現在の沖縄問題の深因の一つになっている)。


琉球処分と王国の滅亡編集

19世紀前半から、イギリス・フランスをはじめ西洋諸国の船が琉球に頻繁に来航するようになる。特に1844年に来航したフランスの軍艦・アルクメーヌ号艦長のデュ・プラン提督は和好・通商・布教について認可を要求した。琉球王府は薪・水・食料は無償提供できるが通商・布教は拒否、しかし提督はこれを無視して大総兵船での再来航を予告(実質的に脅迫)し、宣教師と中国人通訳を残して退去、二人はイギリスの琉球占領の意図を強調し、フランスの保護下に入ることを勧めて認可を求め続けた。


この出来事は飛船により薩摩にも伝えられ、当時の薩摩藩主・島津斉興はこれを報告書にして幕府にも伝え、それにより幕府から二階堂右八郎が指揮する警固兵75名が琉球に派遣される。しかしイギリスも福州の琉球館(貿易実務・渉外にあたる琉球王府の出先機関が当時あった)に通商を求め、拒否するとフランスと同様の対応を行ってきた。


こうした西洋列強による植民地支配を強要する圧力が琉球に押し寄せる状況において、斉興の側近の一人であった儒学者・五代秀堯が、どのように切り抜けるかの具体的方策を問答形式で論じた『琉球秘策』を執筆する。実は「琉球処分」という言葉は、この秀堯が執筆した『琉球秘策』の書き出しにある「琉球の処分は…」という文言から作られたものであり、この時点では強制的な併合ではなく、琉球を日本とは名目上別国家と位置付けて、薩摩がフランスなど列強との戦闘を回避する策を練ったものであった。


1853年、日本へ向かう途中のペリーが来航し、その翌年に琉米条約が締結される。那覇は開港、上述したように当時の琉球は薩摩の統治下であり、掟五ヵ条に従って琉球にある薩摩在番奉行所に報告され、当時の薩摩藩主である島津斉彬に伝えられた。

斉彬はアメリカに蒸気船一隻を注文し、外国への物資支給を従来のように無償で提供するのではなく、2~3倍の価格を要求し、貿易品に日本製品を宛てることなどを琉球側に指示していた。


琉球に異国船が度々に来航し、そこから得た情報は薩摩に伝えられており、清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、それを機に西洋諸国がアジア各国の植民地化を進めていたこともかなり正確に把握されていた。そのため、日本の植民地化を憂慮した斉彬は軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵および殖産興業を掲げたのと同時に、琉球側でペリー来航時に通訳にあたり、外交政策に積極的だった牧志朝忠らを支援した。


だが斉彬の死後、後を継いだ島津久光は斉彬の行った改革計画は全て抹殺するかのごとく、彼の配下を次々と処分していき、久光が積極的に介入しないと見た琉球王府内の反薩摩派が親薩摩派(斉彬派)を弾圧した。これにより琉球は斉彬の側近の一人であった牧志朝忠を始めとした国際感覚を持つ優秀な人材を殆どを失い、さらに日本それ自体の開国により、薩摩側にとって王国の名目上の存続の意義であった貿易拠点としての地位も失い、加えて近代特有の事情(国境の厳格化)により、明治維新後の日本には琉球を「独立国」かつ「属国」という二面性を保ったまま残しておく理由はほぼ失われる事態となった。


そして廃藩置県において鹿児島県の管轄とされた後、まず1872年に他藩が県とされた中で異例の、日本の「琉球藩」とされる。さらに75年の清への朝貢停止で布石を敷いたうえで、1879年に沖縄県を設置。王国廃止に反発する役人などを抑えるため数百名の武力を背景に首里城を明け渡させ、国王尚泰を東京へと移住させた。この通称「琉球処分」を一般に王国の滅亡とみなす。


後世への影響編集

琉球王国が長きにわたり存続したこと、また特に薩摩侵攻以前の交易で繁栄した時代の記憶から、首里城の戦後再建などに見られる通り、この時代の歴史や文化は沖縄県のアイデンティティの核に位置付けられている。


明治政府が強引に進めた琉球処分を巡る経緯もあり、沖縄が日本に不当に併合され独立を求める必要がある、と主張する人々にとってのバックボーンというべき時代ともなっている。


もっとも、羽地朝秀をはじめとする琉球国の多くの知識人が琉球人は日本人と一体と考えていた(日琉同祖論)ことや、沖縄戦後、琉球の日本からの分離を目論んだ米軍占領下にあって、琉球住民の多くが日本への帰属を強く望んだ結果、日本復帰が実現したことなども事実であり、話題としては相当にデリケートな面を含んでいる。沖縄独自の歴史的経緯を持ち出して東京の政府や本土住民への不満を強調する人であっても、琉球独立を主張しているというわけではないのだ。


琉球史を題材にとった作品・キャラクター編集


関連タグ編集

沖縄県 琉球 琉球征伐 薩摩藩

参照編集

wikipedia:同項目および各種リンク先。

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