概要
琉球王国を最初に統一したのは第一尚氏(別系統で尚を名乗ったのが現在まで続く第二尚氏である)で、
第一尚氏の「尚巴志」が3つあった山(領地)を統一してできた。(ただし、琉球王国初代は尚巴志ではなく父親が初代という事になっている。)
そんな尚巴志のあとは次男→次男の子→尚巴志の五男と続くが、五男・金福王が亡くなった後その子である志魯が当然後継となるかに思われたが、二十代であることを理由に金福王の弟・布里が反発。
これによってあろうことか居城の首里城が焼けてしまい(焼けた後は発掘調査で分かっている)
しかも両者が戦死した為、この戦いは何のために行われたのかわからなくなってしまった。
(城が燃え、人が大勢死ぬという悲劇だけが残ってしまった)
その為、家臣たちは尚巴志王の七男に頼み込み、七男もそれを容認。泰久(たいきゅう)王である。
戦時の泰久王の行方は分かっていないが中立であったと思われる。
中国の史書にもこの乱のことはかかれてたりする。