この事件に関しては琉球征服、琉球侵攻、あるいは薩摩の侵攻、あるいは己酉の乱と呼ばれる。なおこの戦いにおいて基本的に琉球側はほぼ無抵抗であり、大規模な戦闘は起こらなかったとされる。
【前史】
徳川政権下では、朝鮮出兵以後の日明国交・交易の回復が、未解決の課題だった。
明との直接交渉がうまくいかない中、1602年、奥州伊達家領内に琉球船が漂着し、これは翌年送還が行なわれた。
これを契機に、幕府より、徳川家康への聘礼と日明交渉の仲介が琉球に求められるようになった。この頃、琉球は明の属国でありながら、16世紀以降奄美群島の支配をめぐり圧力を受けた薩摩にも付庸国として定期的に綾船を派遣し仕える身の上であったため、日本側の交渉は宗主国とされた薩摩に一任されたが、琉球はのらりくらりとこれに応じようとはしないように見えた。
ただし琉球の外交文書集「歴代宝案」によると「1607年、琉球は明に文引を用いた私交易の許可を求めた」とある。これは、日明交易の要求に対する琉球の精一杯の対応と見られるが、明側は倭人が背後にある事を見透かしていたのか、これを拒絶した。
なお、その事実はなかったがのちに書き加えたとの画期的新説もあるが、根拠は不明である。
その後、幕府は聘礼も日明交渉仲介も一向に実現しない現状に苛立ち、徐々に武力解決論に傾斜。1608年9月、幕府の状況の空気を察した島津家久( 島津義弘の子の島津忠恒のほうである )が、改めて僧侶大慈寺龍雲らを派遣し琉球国王である尚寧王及び宰相職を担う三司官( 3人からなるためこの名がある )に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したものの、三司官の一人謝名親方利山は罵倒し大いに使者である僧を辱めたとされる。喜安( 堺の僧であり当時琉球王国の宮廷茶人。「喜安日記」を執筆し、この戦争を知るための一次資料となっているが、なぜかこの日記、複数の版が存在するという謎の状況が発生している。なお、古文書に内容に異同がある複数の版があるのはごく普通の事なので、何が謎なのかは不明である。 )によるとその罵倒の中には「この国は昔から大明に属し、日本とは格別である」と述べたとされる。
結局これが琉球船の漂着より7年に渡る平和解決を目指した交渉の最後となり、幕府は薩摩に琉球討伐を命令。薩摩が取り急ぎ出兵準備を進める中、喜安によると、琉球側は賛成あり反対ありで延々と議論が続く有様で、特に方針もなく琉球侵攻を受ける事となった。
【本史】
出兵した後は特に何事も無く、相手も絶対に勝ち目のないキチガイじみた相手であることはわかっていたため王府も今更ながら無条件降伏路線に一決し、その通りに終わったというのが実情であると思われる。
敢えて詳しく述べると、薩摩軍は1609年3月4日に出発。途中、口永良部島で風待ちして7日に大島着。もともと16世紀後半に領域となり、忠誠心に乏しいと思われる大島の幹部は軒並み王府を見限り薩摩に寝返り、戦闘は全く無かったとされる。
3月16日、先遣隊が徳之島に先発。徳之島には與那原親雲上なる首里士族が派遣されていたが、お粗末なことに「一戦の力もないので」と言い訳し山に逃げ込み後日生け捕りになっている。しかし剽悍な徳之島の百姓や士族の息子らは各自各地で戦闘を挑んだが、錬度の差は明白であり数刻の間に鎮圧されたとされ、徳之島川は数百人の死者、薩摩側にも十数名の死者が出たとされている。そして22日には本隊が到着、山狩りが行われたりした。
興味深い事に、この與那原親雲上含め、王府側記録は徳之島の戦いを完全無視している。おそらく報告する立場の與那原親雲上( 名前は不明である )や掟兄弟が死亡したり逃亡したため報告がなされなかったためではないかと思われる。
24日に出発し沖永良部島に向かい( この島においては戦闘は記録されていない、これはこの島の役人は與那原親雲上向朝智が兼任していたため、あるいは抵抗を試みようとしたが徳之島の惨状を聞いたためか兵力を見て無理だと悟ったのか抵抗を断念したのかもしれない )、そこから本島に向かう。
3月25日には本島の運天( 本島北部に存在する港湾、今帰仁城が存在した )に到着。
菊隠の配下として和睦成立に尽力した三司官の一人、名護親方良豊の子孫が執筆した「向姓家譜」によると、次のようにまとめている。
「万暦37年3月、紋船派遣を停止し、薩摩に無礼を働いたことにより、太守家久公は大将軍樺山を派遣し問罪した。そもそも琉球国は日本と平素より隣交の誼を修め、紋船を派遣して往来してきたのだった。理由は一つには事大主義、一つには国家を富ませるためであった。しかし謝名親方はひねくれた性格だったので、この礼を失してしまった。尚寧王は良豊と菊隠和尚を運天の沖に送り、兵船を迎えさせ、罪に服し、誠意を示した。菊隠は王城に急いで戻って報告し、良豊は兵船に一人で残って那覇まで導いた。かくして戦争の禍は免れた」
もう少し詳しく書くと、薩摩軍が今帰仁に到着した時点で、尚寧は菊隠和尚( 那覇に存在した円覚寺の住職で、琉球第一の高僧とされ、当時は隠居していた )を召喚し「無為和睦」で話をまとめるよう詔を下した。琉球には格・能力共にこれ以上の者はおらず、島津家の面々とも面識があったため、和睦交渉の大使に選ばれた。
菊隠、名護、喜安らは26日に首里を出発。27日、今帰仁で薩摩軍大将・樺山権左衛門との面会に成功。樺山から「和睦の話しは那覇でやるので菊隠は那覇に出会わせてください。名護は我々と一緒に参りましょう」との回答を得た。29日早朝、薩摩船団とともに運天発。午後5時に大湾に着き菊隠らだけすぐ再出港。午後10時に牧港に着き、歩きで夜更けに首里到着。またこの辺りで摂政であった国王の弟である具志頭王子朝盛と三司官を人質として差し出したと思われる。
ただし那覇港の入り口には鎖が引かれ閉鎖されていたため薩摩の軍勢は陸上から侵攻、首里城前で小競り合い程度の戦闘が発生したがそれも退け、開城し和睦成立。
【後史】
国王が城を出ることとなったため、その準備が行われ、16日、崇元寺において、薩摩側の武将と尚寧王が対面、5月には王は鹿児島に向かった。
1610年には国王は江戸および途上の駿河に向かい( なお駿河にて具志頭王子朝盛は病死 )、そこで琉球王国は琉球の支配権を承認されたものの奄美群島を割譲することになった。
1611年には国王および三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文( 近世日本に存在した人が契約を交わす際、破らないことを神仏に誓う文書 )に署名させられたが、この際謝名親方利山は拒絶したため斬首された。
また、琉球の貿易は薩摩藩が監督するようになり、さらに幕府の[[]]の代替わりの、使節を派遣する義務を課せられた。
資料による疑問点
一部資料によると「謝名親方利山が3000の兵士を率い3日間籠城した」とも「謝名親方利山が3000の兵士を配置していたが薩摩の軍勢は陸上から来たため引き返した」ともある。ただしこれらの資料の内容自体が正しい( いわば自らを大きく見せるため話を盛ったり、不利な内容をもみ消しているといったことも否定できない )かどうかは不明な点も多く、時間的にも他の資料から見てもその余裕はなかった可能性が高い。
また、上里隆史と紙屋敦之氏は、「29日夜半に薩摩・菊隠とも運天発。不明時に大湾着。菊隠らは直ちに出発して午前4時に牧港着。夜更けに首里着。他方、薩摩軍は大湾で上陸して4月1日午前6時には浦添着」とのスケジュールも主張している。このように、17世紀の薩摩人は3000㎞を4~6時間で移動できるスーパーテクノロジーを有していたことが分かる。また、これまで、和暦慶長14年の3月には29日までしか知られていなかったが、4月1日の那覇での和睦調印に同席している菊隠が、29日の翌日の夜更けに首里に到着している事から、実は30日まであった事が新発見された事が分かる。