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島津家久

しまづいえひさ

島津家久とは、戦国時代・安土桃山時代の薩摩国の武将。島津貴久の四男。所謂島津四兄弟の末弟である。ネット等の通称は「戦国最強の釣り師」。
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生涯

天文6年(1547年)、島津貴久の四男として生まれる。母親は本田丹波守親康の女で、三人の兄達とは腹違いであるが兄弟仲は非常に良かったと伝わっている。
また祖父・島津忠良を持ってして「軍法戦術に妙を得たり」と高く評価される程の戦上手であった。

15歳の時に初陣を飾り敵将・工藤隠岐守を鑓合わせにて討ち取るという快挙を成した。
初陣でこの戦果は凄まじい物であり、この頃から武将としての器の大きさを漂わせていた。

その後は九州の巨頭の一つである龍造寺隆信との戦いや太閤・豊臣秀吉の九州征伐の際に目覚ましい活躍を続けて兄共々大きく島津家の発展に助力し支えて行ったが、天正15年(1587年)6月5日に佐土原城で急死してしまう。
未だに病死説や毒死説など囁かれているが真偽は不明のままである。

ちなみに彼の子には、関ヶ原の戦いで伝説的な撤退劇を成功に導いた猛将・島津豊久がいる。

「釣り野伏」

彼を語る上で必ず外すことが出来ない戦術として、「釣り野伏」というものがある。
これは島津家が得意としている戦術で、囮部隊が敗走している様に見せかけあらかじめ伏せていた伏兵の場所まで誘導・それを追撃してくる敵部隊を一気に包囲殲滅するというものである。
字で書くと容易く見えるが、これを相手に警戒心を抱かせずに行うには相当な技量が必要とされる。
この戦術を得意とし、凄まじいまでの戦果を上げたのが家久である。

耳川の戦い
1578年、島津軍vs大友軍の戦い。
当時の九州は大友家の一強状態で、島津家は兵力では劣勢であった。
そこで釣り野伏の出番というわけで、島津家久は日向国・耳川の後方に伏兵を置いて待ち伏せつつ、少数の兵をもって大友軍を誘い出した。
大友軍は内部に問題を抱えていたこともあってこの挑発にのって川を渡ってしまい、伏兵で大損害を受け敗走。
島津軍は大損害を出しつつも勝利を収めた。
この勝利によって九州のパワーバランスは大友一強から大友・島津・竜造寺の三国状態へと変わっていった。


沖田畷の戦い
1584年、島津軍vs竜造寺軍の戦い。
耳川の戦いでの勝利によって勢力を拡大した島津家だったが、このとき島津久率いる島津軍は5千~8千であったのに対して、龍造寺軍は1万8千~6万と、戦力にはかなりの差があった。
加えて龍造寺軍の中には総大将である龍造寺隆信を初めとし、龍造寺四天王(百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤、成松信勝、木下昌直)と言った歴戦の猛将も含まれていた。
だが結果として家久の発動した「釣り野伏」に因って島津は大逆転、龍造寺隆信及び竜造寺四天王全員の首級を上げる大金星を挙げた。
この勝利によって島津家は一躍、九州の大勢力となり、九州統一に向かって進んでいく。


戸次川の戦い
1587年、島津軍vs豊臣軍の戦い。
九州の覇者となりかけた島津軍だったが、劣勢の大友家は豊臣秀吉に援軍を求め、秀吉がこれを承諾したことで、10万を遥かに超える豊臣軍を迎撃しなければならなくなった(九州征伐)。
ここでまたしても島津家久が出撃し、仙石秀久ひきいる豊臣軍の先発隊(長宗我部元親信親父子、十河存保などが含まれている)総勢6千余りの豊臣連合軍を、「釣り野伏」を使って有利な地形に誘い込み、大混乱に陥れた。
混乱した連合軍は成す術無く敗れ、長宗我部信親や十河存保が戦死した。
また直接は関係無いが、優秀な後継者候補であった信親を喪った事で長宗我部家は衰退の道をたどる事となった。


その後
局地的に勝利を収めはしたものの圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、島津家はこの戦いからほどなくして豊臣に降伏。
ほぼ同時期に家久が他界している。
ちなみに、兄の義弘の子の島津忠恒も後に家久を名乗った。



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日本史 戦国時代 戦国武将 島津四兄弟 九州勢
戦国大戦 咆哮!島津十字
島津豊久

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