概要
- 生年:天正4年11月7日(1576年11月27日)
- 没年:寛永15年2月23日(1638年4月7日)
安土桃山期~江戸前期にかけて活躍した武将で、「鬼島津」の異名で知られる島津義弘(惟新斎)は実父に、その兄である島津義久は義父(正室の父)にそれぞれ当たる。島津氏の第18代当主(※)であり、江戸幕府成立後には薩摩藩の初代藩主として、琉球への出兵や領内の整備、中央集権化の推進などといった施策を通じて藩の礎を築いた。
(※ 但し、父の義弘を第17代当主とする見解については、現在の本宗家や尚古集成館などはこの見解を維持しているものの、近年の研究から伯父の義久から忠恒に直接家督が譲渡された事が明らかにされるなど否定的な見方が支持されつつあり、これに則れば忠恒は第17代当主という事になる)
父やその兄弟たち(島津四兄弟)などと同様に武勇にも優れていたとされるが、一方で若かりし頃は(本来の家督相続者でなかった事もあってか)蹴鞠と酒に溺れる日々を送り、家督相続が決まって以降もそうした傾向が改まらなかったとも伝わる。
また庄内の乱の発端ともなった伊集院忠棟・忠真父子の誅殺や、家老の平田増宗一族粛清などといった家臣との軋轢、それに正室でいとこでもある亀寿との深刻な不仲など、真偽の定かならざるものも含めてお世辞にも良いとは言えない評価やら逸話やらが様々伝わった結果・・・後世においては(同名の叔父との区別の意も込めて)「悪い方の家久(悪久)」などと呼ばれてしまっている始末である。どうしてこうなった。
時代劇においては、密貿易や幕府転覆といった島津家のダークなイメージを象徴する人物として描かれることが多い。これに対して、彼の曽孫で、家康の玄孫を母とする島津綱貴は、幕府に対する忠誠心と家臣や領民に対する慈愛にあふれた名君として描かれているが、その子孫である重豪が綱貴の血縁を利用して久松松平家や池田家といった徳川一門に近い大名家に養子を送り込んで政治的な発言力を強め、幕府に圧力をかけるようになったのは歴史の皮肉である。
ちなみに、かの真田信繁(幸村)を評した「真田日本一の兵」なる文言は、他ならぬ忠恒(家久)の書状に残されていたものであるが、当の忠恒や島津家は冬・夏通して大坂の陣には不参加であるというオチが付いていたりもする。わけがわからないよ。
生涯
蹴鞠浸りの若君
忠恒が誕生した時点で既に兄が二人おり(うち長兄は夭逝)、当初は家督相続者とは見做されていなかった事から、若かりし頃は蹴鞠と酒色に明け暮れる日々を送っていた。当然の事ながら、父の義弘からは遠征先の朝鮮より書状にて注意を受けた事もあったという。
しかしこうした自堕落な暮らしも、文禄2年(1593年)の次兄・久保の陣没により一変する事となる。この時点で既に義弘が、豊臣政権より事実上の島津氏の当主として扱われていた事もあり、兄の急逝によって忠恒は父だけではなく、島津氏の当主としての後継者としての地位までもが転がり込んできたのである。
後継者としての地位が確立した事により、忠恒の人となりにも若干の変化・・・というよりは本来島津一族の持つ気質が表れ始めたようで、慶長3年(1598年)に父と共に朝鮮へ渡海した(慶長の役)際には、泗川の戦いにて寡兵をもって明の大軍を打ち負かしてもいる。『絵本太閤記』によればこの時の活躍について、忠恒がわずか1000の兵を率いて泗川新城より打って出て、自らも負傷しながらも槍を振るい多数の明軍の兵を切り捨てた、と記している。
・・・と、これだけ聞けば忠恒も島津の後継者として一廉の武将として、ようやく自覚が備わったかと思われるのだが、実際はそういう訳でもない。何しろ朝鮮出兵の折に肥前名護屋、それに泗川といずれの場合も着陣に際してまず行ったのが蹴鞠の庭普請であるという辺り、蹴鞠への傾倒自体は結局変わる事はなかったようである。また朝鮮への在陣の最中には、忠恒の横暴に耐えかねて朝鮮側へ逃亡した雑兵もいたといい(当時の九州には倭寇に拉致され連れてこられた者たちによる唐人町が多くあり、島津家には朝鮮出身の足軽も少なからずいたらしく、逃亡した雑兵はそれらであった可能性もある)、性格の面でも少なからず問題を抱えていたと見られている。
ただし、蹴鞠は高家に於ける教養人の嗜みであり(蹴鞠=軟弱というイメージは、元々高家では無くそれに伴う教養もない徳川の被官らによって江戸時代に作られたものと断じる史家も在る)、名門の武家の嫡子・次子には必須のものであったから、急逝した兄の跡を継いで嫡子となった自らの、および豊臣直臣へ島津家が田舎侍と侮られないためのアピールという側面もあったかもしれない。
伊集院父子の謀殺
さてこの頃、島津家中では伯父・島津義久の代からの家老である伊集院忠棟が、豊臣政権との仲介役という立場から豊臣秀吉より破格の厚遇を受けており、島津氏から半ば独立した存在となりつつあった。こうした忠棟の豊臣寄りな姿勢に対し、家中からは少なからず不信や警戒の念を抱かれていたようで、そうした鬱積はやがて最悪な形で表出する事となる。
慶長4年(1599年)3月、伏見の島津屋敷に呼び出された忠棟は、そこで「主家に叛意あり」との理由により手打ちとされた。そしてこの時忠棟を手に掛けたのが、他でもない忠恒であったのである。忠棟に実際に島津氏への叛意があったのかは定かではなく、また忠棟誅殺を企図したのが忠恒だけであったのか、義弘や義久の関与があったのかという疑問も今なお残されているが、いずれにせよ(実態はともあれ)豊臣政権からは事実上独立した大名と扱われていた忠棟を手にかけた事は、豊臣政権への反逆行為と見做される恐れがあった。
忠恒は事件後高雄山神護寺にて謹慎したものの、程なく徳川家康の裁定によって「反逆した家臣の成敗である」とされ島津屋敷に戻った。しかし事はこれで収まるはずもなく、当時在国していた忠棟の嫡男・伊集院忠真が本拠の都之城に籠り、島津宗家へ叛旗を翻すという事態にまで至った。世に言う庄内の乱の勃発である。
伊集院決起の報せに接し、家康の承諾を得た忠恒は急ぎ本国へ帰還、島津一門や重臣らからなる大軍を率いて庄内へと侵攻した。地の利を活かした伊集院方の頑強な抵抗もあり、戦況は膠着状態に陥ったものの、最終的には家康の調停によって忠真が降伏する代わりに、これまで通り島津氏に仕える事を義久と忠恒が承諾する事を条件に、半年あまりに亘って続いた庄内の乱は一応の終息を見た。
・・・のだが、それで全てが終わった訳ではなかった。伊集院忠真はその後も肥後の加藤清正に仇討ちの助力を求める密使を送ろうと試みており(この一件がきっかけで清正には家康より、領国での謹慎が命じられるに至っている)、忠恒もこうした忠真の動向に対する警戒を解く事はなかった。
そして乱の終結より2年余り後の慶長7年(1602年)8月、忠恒の上洛に当たって忠真にも同行が命じられ、一行が日向野尻に至った折に当地にて狩りを催したその最中、忠真は平田平馬(宗次)と共に忠恒の家臣らによって射殺された。対外的にはこの両者の射殺は誤射とされ、程なくして実行犯も切腹を命じられたが、同日に忠真の母と弟たちも殺されている事や、忠真と共に射殺された平田平馬の父で島津氏家老・平田増宗が、かつて忠真と共に忠恒の廃嫡と島津久信(垂水島津家当主、義久の外孫にあたる)の擁立を図ったとされる事などから、両名とも忠恒の命により計画的に暗殺されたと見られている。
薩摩藩主として
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父の義弘や従兄弟の豊久が西軍に属した事から、戦後島津討伐が九州の諸大名に命じられるなど、島津氏の存続が危ぶまれる事態となった。
これを受け、帰国した義弘は井伊直政に戦後交渉の仲介を依頼し、直政と義久・忠恒の間で交渉が行われる事となった。家康からは再三に亘り、義久と義弘が上洛し謝罪するよう求められたが、義久は本領安堵が確約されない限りはその要求には応じられないとして拒絶、その名代として忠恒らが上洛し折衝・・・というよりは家康に少しずつ譲歩を重ねさせる形で交渉が進められた。
最終的には家康によって島津氏の本領安堵が確約され、義久の名代として忠恒が上洛し謝罪と本領安堵の御礼を伝える事で、2年余りに亘る「折衝」は落着を見るに至った。ちなみに前述の伊集院忠真暗殺事件は、正にこの時の上洛に際して行われたものであった。またこの時の上洛の前に義久からは「忠義に欠けた行い」であるとして反対されてもいたが、忠恒はこれを振り切って上洛に及び、後に義久もこれを追認する旨の書状を送っている。
その慶長7年には、義久より家督と「御重物」と呼ばれる当主の証を譲られ、正式に島津氏の当主の座に就任。一般的にはこの時をもって薩摩藩が成立したとされている。また4年後の慶長11年(1606年)には家康からの偏諱を受け、名を「家久」と改めている。
実権は依然として義久や義弘が掌握していたものの、薩摩藩主となった家久はその基盤の確立を目指し様々な施策を講じた。予てからの明との密貿易を通しての財政難の解消や、鹿児島城を中心とした城下町の整備、外城制などによる領内の統治体制の確立はこの時期に進められたものであり、さらに慶長14年(1609年)には琉球に出兵してこれを占領、幕府より琉球の支配権と奄美群島の割譲を公認させてもいる。
また幕府との関係保全にも腐心していたようで、まだ参勤交代の制度が確立していないこの頃にいち早く妻子を江戸に送って人質とした他、大坂の陣に際しては将軍・徳川秀忠に対し豊臣へ加担する事のない旨の起請文を提出してもいる。こうした積み重ねもあってか、元和3年(1617年)には秀忠より松平姓を与えられ、同時に薩摩守にも任官されている。
一方で、慶長15年(1610年)には家臣に命じて家老の平田増宗を上意討ちさせ、後にはその一族をも粛清するに至っている。その理由については今なお確定を見ていないものの、先の庄内の乱における家久廃嫡の動きに加担していたがためとも、または後述の後継問題に関連してのこととも言われている。この他にも、実行役の一人である押川公近(強兵衛)が当時義弘の家臣であったことから、この粛清には家久のみならず義弘も一枚噛んでおり、この父子による事実上のクーデターで島津氏の系譜が義久のそれから、家久のそれへと切り替わったのではないかという見方も示されている。
また晩年の寛永4年(1627年)には領土を接する日向飫肥藩との間で、藩境を巡る争いが発生。双方による検分でも結論が出ず、後に幕府の視察によって飫肥藩側の主張が認められるも、薩摩藩はその一部について納得せず論争は継続され、飫肥藩勝訴という最終的な結論が出されたのは延宝3年(1675年)、家久が寛永15年(1638年)に62歳で亡くなってから実に40年近くも後、2代目藩主・光久の治世も末期に差し掛かった頃の事であった。
亀寿との不仲
こうして家久が薩摩藩の基礎を固めていく中でしかし、家久と義久・義弘との関係は次第に悪化していったようで、「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(家久)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に分かれ、世上に不穏な噂が流れていた」との証言が残されている程である。中でも義久との関係悪化は、前述した琉球出兵に絡んでの事(※)のみに留まらず、家久とその正室である亀寿との深刻な不仲も多分に影響していた。
義久の娘で、家久にとってはいとこに当たる亀寿は当初、家久の兄である久保に嫁いでおり、久保の急逝後に改めて家久に嫁いだという経緯があった。しかしこの縁組は当事者たちというよりは豊臣政権の意向によるところが大きく、こうした複雑な血縁関係や背景もあってか、家久と亀寿との仲はお世辞にも良いとは言えなかった。
なおかつ、島津氏が主君の子女に対しても相当の権威を付与していたのも問題であった。これは島津家臣の樺山善久の肖像画からも窺えることで、善久は忠恒の祖父島津貴久の姉である御隅を娶っているが、肖像画では善久と御隅が同じ高さで横並びに描かれており、両者が島津家中では同格であったことが示唆される(同時代の武田勝頼の肖像画では、嫡男・信勝と正室で北条氏康の娘である北条夫人が勝頼よりも遙か下の段に描かれていることからも、これが特殊であるのが分かる)。
亀寿は義久の嫡女であるからその権威は相当に高く、亀寿直臣の平田宗親(平田増宗の実弟)は家老の立場を与えられていた。即ち、島津家中は実質上の二頭体制が続いており、戦国時代ならばいざ知らず、確固たる中央政権が確立された江戸時代にあっては、御家お取り潰しの可能性を秘めた爆弾を抱えているも同様であった。
そして、そんな両者の間に実子が出来なかった事も、家久にとっては頭痛の種と言えるものでしかなかった。義父との関係や、元々島津氏が一夫一妻制の傾向にあった事から、側室を設ける事も憚られる中、家久はこの苦境を脱すべく思い切った行動に打って出る。
慶長14年の琉球出兵の後、琉球国王の尚寧王を伴って江戸に赴いた際、将軍・秀忠の次男である国千代(後の徳川忠長)を養子に貰い受けたいと申し出た。当然ながら秀忠や幕臣らからは国千代が将軍家の跡取りの一人であるとして拒絶されるも、この時かけられた「家久はまだ若年なので側室を置けばよいではないか」との諭しの言葉こそ、家久が本当に狙っていたものであった。家久はこの言を大義名分として、徳川将軍家の権威を背景に前述した島津一族の不文律を克服する、という道を選んだのである。
その目論見は早くも翌々年に達成されることとなった。義父・義久の他界により大きな障害が解消された家久は直ちに島津忠清の娘を側室に迎えたのを皮切りに、後には8人もの側室との間に多数の子女を設けたのである。その子女の数は嫡男・光久を始め実に33人にも及び、家久はこれらの子女を分家の跡継ぎや重臣らに養子もしくは妻として迎えさせる事で、後継問題の解消のみならず藩主への権力集中をも成功させる事となった。
一方で正室であった亀寿は、側室を迎えるに当たって国分城へ移され別居状態となった。一応、最初の側室については彼女の姪孫(長姉の孫に当たる)でもあったため、義久の血統が続く事になるとしてこれを容認したとされるが、その後も家久との関係が改善される事は遂にないまま、寛永7年(1630年)に逝去。
その折に彼女付きの奥女中宛に家久が送った和歌については、その末尾の解釈を巡って亀寿への徹底した冷遇を示したもの、もしくは最後の最後で彼女の死を悼む心情を覗かせたものと、現在に至るまで見解が大きく分かれている。
「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな」
(※ 琉球出兵は家久や義弘が積極的に推進していたものであり、琉球との融和政策を図っていた義久はこれに反対していたとされる)