概要
源頼朝の乳母の孫、惟宗(島津)忠久を初代とする。島津忠久が壇ノ浦の戦いの戦後処理で薩摩・大隅・日向三国にまたがる島津荘を与えられて以降、薩摩国を中心とした南九州を領有した。南北朝時代には北朝方について懐良親王擁する菊池一族と対抗、江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続した伝統と実績の一族。
また「島津に暗君なし」と言わしめるほど、代々優秀な当主を排出してきた名家。
特に島津忠良は城下町の整備と養蚕などの産業を興し仁政を敷き、島津義久・義弘を初めとする四兄弟が大友宗麟と争い、島津家の領地を九州ほぼ一帯を拡大するという働きをやってのげたことが評価されている。
結果として宗麟は豊臣秀吉に助けを請うために大坂に赴くことになるが、秀吉はこれを口実として島津征伐を敢行、島津領を薩摩・大隅2国と日向諸県郡にとどめることになった。
関ヶ原の戦いでは西軍方につき大勢が定まるまで動くことはなかったが、東軍に囲まれてから猛然と徳川本陣を突き脱出、主将・島津義弘を守るため義久の甥・豊久(家久の子)らは討死、薩摩にたどりついたのは義弘以下わずか80数名だったという。
江戸時代においてもその家格は重視され、島津宗家は外様大名として加賀藩主・前田家に次ぐ家格を有した(例として、将軍拝謁の席次である伺候席は徳川家親族を除き前田家に次いで二位である。また前田家は松平加賀宰相として親族に扱われたため、名目上は親族外のトップであった)。また、8代藩主・島津重豪は蘭学好きの大名であると同時に娘・茂姫が11代将軍・徳川家斉の正室であり、将軍の岳父として大いに権勢をふるった。
所領石高72万石も戦国時代ほどではないにせよ天領(将軍家領)700万石・前田家103万石に次ぐ石高である。また琉球の実質上の支配権を有していた。
熊本藩・加藤忠広(清正の子)の改易後、熊本城に細川忠利を城主とし、「一国一城」の特例として八代城に熊本藩家老・松井氏を入れたのも一説には島津が謀反を起こさないよう監視するためであったと言われている。
明治維新においても薩摩藩士が多く活躍し、そのおかげで厚遇された。他方、幕末の島津家の事実上の当主(先代藩主斉彬の弟で、時の藩主忠義の父)・島津久光は新政府の急進的な改革には批判的な面もあった。華族は特に久光の怒りを鎮める目的がそもそもの設立の遠因とまで言われ、久光死去の折には国葬も行われている。
島津一門は華族としては公爵家2家・伯爵家1家・男爵家11家に叙された。これは武家として徳川・松平両氏に次ぐ。
昭和天皇の后である香淳皇后の母は島津宗家の出身であり、更にその末娘で上皇の妹・島津貴子は佐土原島津家の次男に嫁いでいる。
平成・令和の世になってでさえ、島津興業という旧藩内の歴史遺産を所有して観光事業に営む会社を経営し、鹿児島県内においては未だ隠然たる力を有している。
詳しくは各個人の記事を参照にすれば良いが、兎に角抜きん出た活躍をする者が多く表現媒体などでは
トップクラスのステータスが設定されている事が多い。
主な出身人物
- 島津忠良(日新斎) - 「中興の祖」
- 島津貴久
- 島津義久 - 「島津四兄弟」
- 島津義弘 - 「島津四兄弟」 / 「鬼島津」
- 島津歳久 - 「島津四兄弟」
- 島津家久 - 「島津四兄弟」
- 島津豊久
- 島津忠恒
- 島津重豪
- 島津斉興
- 島津斉彬
- 島津久光
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