島津重豪
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しまづしげひで
江戸時代後期の大名、薩摩藩第8代藩主。
島津家の分家・加治木島津家の当主・島津久門(後の第7代藩主・島津重年)の長男として生まれる。
父・重年が第7代藩主に迎えられてのち加治木島津家当主となり、久方を名乗るが、宝暦4年(1754年)8月に薩摩藩世子となり忠洪(ただひろ)に改名。宝暦5年(1755年)5月に父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。
宝暦8年(1758年)8月に元服。江戸幕府第9代将軍・徳川家重から「重」の字を諱として与えられ「重豪」に改名。従四位下、左近衛少将兼薩摩守に叙任される。幼少のため祖父・島津継豊(第5代藩主)が宝暦10年(1760年)に死去するまで後見、以後は重豪が実権を握った。
重豪は藩校・造士館、武芸稽古場・演武館を設立、教育の普及に努め、医学院も設立した功績もあるが、特に知られるのは外様の雄藩でありながら第11代将軍・徳川家斉の舅となったことである。
その権勢は後世の語り草となったが、藩財政に多大な負担を強いることとなった。
天明7年(1787年)に父・重豪の隠居により第9代藩主となった長男・斉宣は財政再建に着手したが、父・重豪と対立、父により隠居を強いられることとなった。
文化6年(1809年)6月、孫の斉興(斉宣の長男)を新たな藩主として実権を握り、斉興が財政再建に動き出すのは、天保4年(1833年)に重豪が亡くなってからであった。
また、重豪は曾孫の斉彬をかわいがり、斉彬の洋学好き、政治思想に影響を与えた人物としても知られている。斉彬の思考が重豪と似ていることを知った斉興は、嫡男である斉彬を廃して和漢の教養がある側室・お由羅の方の子である久光を新たな世子と考えるにいたった。
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