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島津歳久

しまづとしひさ

島津歳久とは、戦国時代・安土桃山時代の薩摩国の武将。島津貴久の三男。所謂島津四兄弟の三男である。後世では「戦の神様」であると共に「安産の神様」として祀られている人物。 ※某漫画家曰く「歩く人身御供」
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生涯編集

天文6年(1537年)、島津貴久の三男として生まれる。母親は入来院重聡の娘で、

二人の兄島津義久(龍伯)、島津義弘(惟新)と腹違いの弟である島津家久がいる。

仮名は又六郎。晩年は晴蓑(せいさ)と号した。官途名は左衛門督を称し唐名から「金吾」と呼ばれた。

日置島津家の祖となる。


例に漏れず、他の兄弟共々優秀な武将としてまた稀代の智将として後世に伝わっている。

また祖父・島津忠良をもってして「始終の利害を察するの智計並びなく」と評価されており智に関しては兄弟の中で最も優れていたとされる。


兄弟たちと力を合わして、島津家の発展に大いに助力した人物であった。関白豊臣秀吉の九州征伐でも力の差を認め最初は恭順すら主張していた。しかし娘婿で後継者だった島津忠隣(島津実久の孫、島津義虎の子)を失ったせいもあり反秀吉の急先鋒となり、最後まで秀吉に反抗した。その頃から歳久は晴蓑と名乗り忠隣の遺児で孫の島津常久を養育していた。しかし、大酒豪ぶりが祟り中風を患う。文禄の役が始まった頃、肥後で梅北国兼の乱が起きる。その際、反乱軍に晴蓑の家臣が多く参加したことやそれまでの反抗的な態度もありなどから秀吉の怒りを買うことになり兄・龍伯(義久)に晴蓑追討令が下った。それを受けて晴蓑は島津家を守るために自害しようとするが病気のせいで身体が思うように動かせなかったが家臣たちもなかなか介錯出来なかった。また追討軍の兵たちも主君の弟ということもありなかなか手を下すことができなかったが、とうとう原田甚次が首を取った。享年56。

しかし、この顛末に納得がいかなかった歳久夫人と忠隣夫人が今度は常久を擁し虎居城で反抗する。その後は新納忠元の説得もあり彼女たちもようやく矛を収めている。


ちなみに日置島津家は幕末に赤山靱負(島津久普)・桂久武(島津歳貞)兄弟を輩出している。

地味扱いされる理由編集

非常に有能であったにもかかわらず他の兄弟に比べるとどうしても地味に映ってしまう歳久。これは華々しい活躍が多い他の兄弟に比べて、参謀などの裏方での活躍が主だったため史料も乏しいせいである。また自身が総大将を務めた戦いも1562年の大隅国横川城の攻略戦のみである上に参戦した合戦数自体も義久にこそ勝るものの義弘には遥か及ばないことなども地味扱いされる要因となっている

もっとも他の兄弟たちの方が当時としてはあり得ないくらいの規格外の素質を持っており、その結果として歳久が浮いたような扱いがされたとする見方もある。


安産の神様編集

歴史ファンやネット上では、武将としての活躍があまり注目されていないが、

「安産の神」としては有名である。

これは自害する直前に

「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」

言ったとされるエピソードがあり、

そこから平松神社には「戦の神」並びに「安産の神」としても信仰されている。

幕末に子孫の久武と親しかったかの西郷隆盛も尊敬していたとされる。


創作での扱い編集


信長の野望編集

他の兄弟ともども島津家が初登場した「武将風雲録」からの常連。登場時からそれなりに有能だが他の兄弟に比べて地味な存在だっだが最近の作品では義弘や家久どころか義久をも凌駕する智謀を持ち「智謀の歳久」の二つ名は伊達ではなくなった。


戦国無双シリーズ編集


CV:山田真一(2)

武器 槍


激・戦国無双から一般武将として登場しており、2empiresでは同じ国に所属してるときに島津四兄弟の名乗りイベントが発生する。



関連タグ編集

日本史 戦国時代 戦国武将 島津四兄弟 九州勢

戦国大戦

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