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島津斉興

しまづなりおき

江戸時代末期の外様大名。第10代薩摩藩主。
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概要

生没年 寛政3年(1791年)11月6日~安政6年(1859年)9月12日
江戸時代末期の外様大名。薩摩藩第10代藩主。
島津斉彬(薩摩藩第11代藩主)、久光兄弟の父。天璋院篤姫の父・島津忠剛は異母弟(島津斉宣の七男)にあたる。

薩摩藩第8代藩主・島津重豪

寛政3年(1791年)、斉興は第9代藩主・島津斉宣の嫡男として生まれた家督を継いだが、文化6年(1809年)、父・重豪との権力争いに敗れ、藩主の座を斉興に奪われてしまう。
これ以降、重豪は孫・斉興を傀儡として、天保4年(1833年)に死去するまで藩の実権を握る。
重豪は江戸幕府・第11代将軍徳川家斉の正室・茂姫の父として権勢をふるう一方、洋学の研究に多額の資金をつぎ込み、藩財政を傾けた人物としても有名であり(500万両の借金を作ったといわれている)、文化6年(1809年)に生まれた曾孫・斉彬にも多大な影響を与えた人物としても知られている。

斉興の政策

天保3年(1832年)、斉興は調所笑左衛門を家老に登用、破綻した藩財政の再建に乗り出す。
調所は行政改革、農地改革、砂糖の専売化、琉球を通じて清と密貿易、果ては莫大な借金を250年年賦にするという、無茶な要求を商人に呑ませて、薩摩藩の財政再建に一応の成果を上げる。

嫡男・斉彬との対立

この間、嫡男・斉彬に家督を譲ることに危機感を覚えた斉興は、斉彬を廃嫡後、家督を側室・お由羅の方の子・久光に譲ることを画策する。
理由としては斉彬が「島津重豪の再来」と言われるほど洋学の研究に熱心と評判の人物であり、もし斉彬が藩主になった場合、薩摩藩は再び財政難になるのではないかとの危機感があったらしい。
この両派の対立は藩を二分するほどの深刻なものであり、斉興は大久保利世・利通父子ら多くの斉彬派藩士を弾圧した。
これらの深刻な事態に斉彬の盟友であり、幕府の実権を握る老中首座・阿部正弘は、嘉永2年(1849年)、清との密貿易を理由に斉興に隠居を命じ、ようやく斉彬は藩主の座に就くこととなった。

斉興はこの後、隠居生活を送るが家督を継いだ斉彬が、安政5年(1858年)、薩摩での軍事演習後、にわかに病を発し死去、斉彬が久光の長男・忠義を後継としたため、隠居していた斉興が、翌安政6年(1859年)に死去するまで後見として再び政務をとることとなった。

斉興死去後

薩摩藩の実権は斉興が藩主になることを望んだ久光が握った。
斉彬派の西郷隆盛は斉彬に心酔していたことから、保守的な久光が斉彬の跡を継ぐことを快く思っておらず、「いなか者」と罵倒して久光の怒りを買ったという。

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