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壇ノ浦の戦い

だんのうらのたたかい

1185年に関門海峡で行われた源氏と平氏の海戦。源平合戦の最終決戦であり、この戦いに敗れた平氏(伊勢平氏)は滅亡、安徳天皇も海中に没した。
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概略

寿永4年/元暦2年(1185年)3月、関門海峡にて行われた源氏軍と平氏軍との海戦源平合戦の最終決戦である。源義経の指揮する源氏海軍が平宗盛平知盛率いる平氏海軍を破った。


平氏主要武将の大半が入水し平氏軍は崩壊、そして平氏の奉じる安徳天皇も、祖母である平時子と共に海中に没した。安徳天皇の生母建礼門院は入水するも保護された。

こうして平氏は事実上の滅亡を来たすこととなる。


戦前の経緯

前年の寿永3年/治承8年(1184年)2月、源範頼源義経兄弟率いる源氏軍は摂津国福原(現在の神戸市付近)にて平氏軍を破った(一ノ谷の戦い)。

多くの武将を討ち取られ大打撃を受けた平氏は福原京を放棄、棟梁の平宗盛は海路四国の屋島(現在の高松市付近)に本拠を移し、その弟平知盛関門海峡の小島である長門国彦島(下関市、現在は埋め立てにより本州と陸続き)に拠点を固めた。


1185年2月、源範頼軍は平知盛軍の妨害に苦戦しつつも、反平氏の地元豪族の協力を得て関門海峡を渡り九州に上陸、平氏軍が九州に逃れる退路を断つことに成功した(葦屋浦の戦い)。

一方、源義経軍は四国に渡り屋島を襲撃、平氏軍を海上へと敗走させ(屋島の戦い)、ここに平氏は関門海峡の彦島に追い詰められることとなった。


関門海峡対岸の九州側は範頼に固められ、東の海上からは義経の船団が迫る。平氏側は残る船を全て繰り出し、知盛を大将として決戦に臨むこととなった。


戦闘経過

実のところ、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』や、源平合戦に関する最も有名な読み物である『平家物語』でも、戦闘経過は詳しく説明されていない。ただ、大正時代に東大教授黒板勝美(『大日本古文書』や『国史大系』の編纂に携わった、古典編纂の大家である)が唱えた「潮の流れが勝敗に重大な影響を与えた」とする説が、その後の創作物などに広く影響を与えている(近年の研究では異論もある)。


序盤、平氏優勢

両軍の船の数は史料や物語によって異なっており、源氏800艘(3000艘とも)・平氏500艘(1000艘とも)と伝わるが、いずれにせよ数の上では源氏軍有利であったらしい。しかし開戦序盤、関門海峡の激しい潮流を熟知した平氏軍は、追い潮に乗って源氏に対し攻勢を仕掛けた。

極端な例えだが、50km/hの速さで走行する軽トラックの荷台から前方に100km/hでボールを投げると、速度が加算されて150km/hの剛速球と化す。逆も然り(TV番組『トリビアの泉』で100㎞/hに加速したトラックの荷台から真後ろにピッチングマシンで100㎞/hのボールを投げた結果、発射地点の真下に落下した)で、バック状態では速度が落ちる。つまり、矢を射かけ合う当時の海戦においては、追い潮を得た側が有利なのである。


「不利に陥った義経は、部下に命じて平氏側の船の漕ぎ手(非戦闘員であるため故意に殺傷しないことが当時の暗黙の了解となっていた)を優先的に殺しにかかり、平氏側の船足を止めた」とよく言われ、義経の冷徹でリアリストな一面を示すものとして語られるが、実際のところこの描写は『吾妻鏡』にも『平家物語』にもない。『平家物語』には、もはや平氏軍の統制が取れなくなった戦闘終盤、源氏軍の兵士が次々に平氏軍の船に飛び移り、誰彼かまわぬ斬殺劇が始まった(大勢が決した後の合戦ではよくある光景である)とはあるが、これが後世に脚色されたものらしい。


源氏軍反撃

知盛は、船団の中で最も豪華な唐船の一団に兵を潜ませ「あの船に安徳天皇がおわすに違いない」と源氏主力が近づいてきた所を包囲する作戦を立てていたというが、これは源氏軍への寝返り者が出たために情報が漏れ、成功しなかったという。


戦闘が長引く中、やがて潮の流れが変化して源氏軍に追い潮になると一気に攻守が逆転し、源氏軍が反攻に出た。平氏船団が押し戻され、狭い海峡に差し掛かると、九州側の海岸を固めていた範頼軍も雨あられと遠矢を海上に向かって射かけ、義経軍を支援した。


安徳帝入水

もともと数に劣っていた平氏船団は壊滅状態に陥り、ここに至って平氏側大将の知盛は敗戦を悟った。知盛は安徳天皇やその生母建礼門院、自らの母平時子、女官たちが乗る船に移り、自らを持ち「見苦しいものは片付けなさい」と掃除をして回った。「いくさはどうなったのですか」と尋ねる女官たちには「すぐに珍しい東国の男どもをご覧になれましょう」と答えた。この時代、敗軍の女たちが勝利した兵たちに見つかれば、待っていることは一つである。知盛は遠回しな行動と物言いで、凌辱を受けて苦しむ前に自害なさい、と女官たちに示唆して回ったのである。


敗北を悟った時子は幼い安徳天皇を抱き上げて船べりに立ち、「わたしをどこへ連れていくのか」とあどけなく尋ねる幼帝に「阿弥陀様のおられる浄土へ参りましょう。波の下にも、都がございます」と答え、海に飛び込んだ。建礼門院や女官たちも次々に後を追った。

わだつみの幼帝浪の下にも都の候

平氏諸将も次々に入水した。亡き平清盛の弟である経盛教盛、清盛の孫たちである資盛有盛行盛らが海に沈んだ。一門棟梁の平宗盛も息子の清宗とともに海に飛び込んだが死にきれず、なまじ泳ぎが得意なために浮かんでいたところを源氏軍に捕縛され、命を惜しんだと嘲笑を受けることとなった。


教経奮戦と八艘跳び

平氏軍の中でただ一人、教盛の子である剛の者平教経は敗北を認めず、襲い来る源氏兵を散々に討ち果たし抗戦していた。知盛は伝令を送り「もはや帝も亡く、お前一人が抗っても勝敗は変わらない。これ以上無益な殺生をするな」と伝えた。

ならば、死出の土産に敵の大将を討ち取ってやると考えた教経は、義経の乗る船を探し出し船を飛び移って襲い掛かった。


しかし義経は教経を相手にせず、ひらりひらりと船から船へと跳躍し、あっという間に八艘も彼方へ跳び去ってしまったという。俗に言う「八艘跳び」の伝説である。もはやこれまでと諦めた教経は太刀も兜も鎧の袖、草摺りも海に捨てて素手となり源氏方を挑発するも、源氏側は皆が怖気づいてただ遠巻きにするなか、各々が30人力と豪語する安芸太郎実光・次郎兄弟と郎党の3人が押し寄せる。しかし教経はこの猛攻すらものともせず、まず郎党を海に蹴り落とし、次に兄弟を両脇に抱えて締め上げ「お前ら、死出の旅の共をせよ」と道連れに海に沈んだ。

『戦国大戦TCG』八艘飛び戦国大戦TCG「平教経」


戦闘終結

この戦闘における平氏軍大将を任せられた知盛は経過の全てを見届けると、「見るべきほどのものは見つ(見届けなければならないものは見た)」とつぶやき、万一にも生き恥を晒すことのないよう鎧を二重に着込み、乳兄弟の平家長と共に入水して果てた。

江戸時代に作られた人形浄瑠璃歌舞伎の演目『義経千本桜』では、知盛は船のをかついで海に飛び込んだとされており(碇知盛)、このため後世の創作物では平知盛の得物として碇が採用される例がみられる。

平知盛平知盛【碇知盛】

平忠盛が昇殿を許されてから50数年、その子清盛の死からわずかに4年。栄華を誇った伊勢平氏の一門は、ここに滅亡したのである。


戦後処理

三種の神器のゆくえ

平氏は西国に落ちのびる際、天皇権の象徴たる重大なレガリアである三種の神器平安京から持ち出しており、神器の無事回収も範頼・義経に課せられた重大な任務であった。


このうち、八咫鏡は安徳天皇の御座船に大きな櫃に入って安置されており、源氏軍によって無事回収された。蓋を閉じる鎖を破壊して中の鏡を確認しようとした源氏兵は目がくらんで鼻血を噴き、鏡のそばに控えていた時子の弟平時忠が「開けるでない、これは神鏡であるぞ」と止めたという。


八尺瓊勾玉天叢雲剣は、安徳天皇の入水の際に共に海中に沈んだが、勾玉は箱に収められていたために浮かび上がり、回収された。

しかし、天叢雲剣だけは海中に沈んでしまい、いくら捜索しても発見できなかった。この時喪失したのは本体から力を分け与えられた儀式用の形代(かたしろ)であり、本体の剣は愛知県熱田神宮に現在も健在である…とされる。しかし、形代とはいえ常に天皇と共にあるべき剣を喪失したことは変わらず、確保に失敗した義経は大いに面目を損ねることになった。


また、三種の神器が京都にないまま既に見切り即位していた後鳥羽天皇は、剣の喪失により「神器を欠いた天皇」の烙印を押されることになり、これにより抱いたコンプレックスが後に承久の乱を起こす遠因になったという見方もある。


結局、神器のうち剣に関しては、伊勢神宮から朝廷に献上されていた別の剣を「草薙剣」として、新たな形代に用いることになった。


敗軍処理

捕縛された平氏棟梁平宗盛・清宗親子は、鎌倉に護送され源頼朝の尋問を受けたあと、近江国で処刑された。平時忠は神鏡を守った功績を主張し、また自らの娘を義経に嫁がせる工作を行ったこともあり、罪一等を減じられて能登国に配流となった。


前天皇の生母である建礼門院徳子をさすがに罪に問うわけにはいかず、徳子は出家し、京中心部を遠く離れた山中にある大原寂光院で一門の菩提を弔って余生を送った。『平家物語』は、となった徳子の元へ後白河法皇がお忍びで見舞いに訪れる場面で幕を閉じる。


また、平維盛の嫡男で、清盛の嫡系の曾孫である六代は、一門都落ちの際あまりに幼かったことから京都に留め置かれ、真言宗の僧文覚が保護することで鎌倉幕府成立後もしばらく存命していたが、文覚が流罪となると処刑され、ここに伊勢平氏直系は完全に途絶えることとなった。


落人伝説

しかし、「実は平氏の有力人物が生き延びており、〇〇に隠れ住んでいた」という落人伝説は日本全国に存在する。


海中に没した安徳天皇は、壇ノ浦の海を臨む阿弥陀寺に弔われたが、「海中に沈んだというのは源氏の目をくらますための嘘であり、実際は平氏の残党に守られて壇ノ浦を脱出し、落ち延びていた」「海中に沈んだのは安徳天皇の影武者であり、当人はそもそも壇ノ浦にすら行っておらず、一ノ谷あるいは屋島・志度の時点で平氏の本隊とは別れてしまい、別の平家一門と共に落ち延びた」とする安徳天皇生存伝説を伝える地が日本各地に存在する。「ここが安徳天皇の墓である」と主張する墓所も複数存在するのだから驚きである。

また、一門を離脱して入水したとされる平維盛も、正確な死没が不明のため生存伝説が多い。


後年の創作では、平氏の猛将平景清藤原景清)が、落人となって様々な身分に身をやつし、源氏への復讐の機会を窺うという「景清物」というジャンルの作品がいくつも作られた(の『景清』、人形浄瑠璃歌舞伎の『出世景清』など)。アーケードゲーム源平討魔伝』も、世界観はダークファンタジーとなっているが、こうした景清物の系譜をくむ作品である。


関連項目

源平合戦 源氏 平家 海戦

安徳天皇 源義経 平知盛 平教経

関門海峡 赤間神宮 耳なし芳一 平家蟹

T・Pぼん 火の鳥


イルカ:大きな群れが現れたため、戦いの勝敗の吉兆を占う材料にされたとされている。瀬戸内海には昔は多数のクジライルカスナメリニホンアシカウミガメなどがいたとされているので、史実ならばこの時にたまたま大きな群れが通りかかったのだと思われる。

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