概要
1161年~1185年
平重盛の次男。
平家一門全盛期においては幼少時から累進を重ね、代表的なエピソードとしては1170年に当時の摂政である松殿基房の牛車に下馬の礼を取らなかった事で基房側から恥辱を受け、父の重盛が兵を送って報復した事がある。
官位は最終的に従三位右近衛権中将まで進んでいるが、父の重盛の死後は祖父清盛の後継となったのは叔父の宗盛であった為、資盛や兄の維盛ら重盛の息子(小松家)は微妙な立ち位置となる。
治承・寿永の乱では兄の維盛や弟の清経が途中離脱して入水自殺する中、最後まで平家一門の将として戦い続け壇ノ浦の戦いの敗北により弟の有盛と従兄弟の行盛と共に入水自殺した。
後世にて資盛の子孫を自称する武家は多く、有名なケースとしては資盛の遺児とされる親実を祖とする織田氏があるが伝説の域を出ない。